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連載・特集

ビキニ被災50年 第2部 焼津から <4> 忘却 平和運動 市民と距離感

 静岡県焼津市文化センターは、港から少し離れた市街地の外れに立つ。ホールなどを備えた施設の一部は、市歴史民俗資料館に充てられている。縄文時代からの歴史をたどるこの館には、焼津で一時期、夏を過ごしていた小泉八雲のコーナーがある。

市は6月30日

 第五福竜丸の関連展示もあった。年表や写真パネル、被災の半年後に亡くなった乗組員の久保山愛吉さんの手紙、「原爆マグロ」の放射線測定に使ったガイガーカウンター…。計十八点が、歴史の一ページを静かに語りかける。

 それから半世紀の今年三月一日、市文化センターでは、原水爆禁止運動団体のビキニデー集会が開かれる。資料館では特別展などの計画はない。「五十年とはいえ、資料館単独で何かをするのは難しい。焼津市には『六月三十日』がありますから」と吉永律子館長が話し始めた。

 六月三十日とは、ビキニ被災の翌年、米国からの慰謝料を受けた日本政府が、一部を第五福竜丸の乗組員に分配した日。焼津に騒動を持ち込んだ責任も感じる乗組員たちにとって、複雑な思いを抱く日だ。市は、事件が「決着」した日として、市民集会(式典)を主催してきた。

若者の無関心

 「乗組員の心境を考えると、嫌な日だとは承知している。しかし、サンイチ(三月一日)は、一部の団体のイメージが強すぎて、地元には抵抗があるんです」。焼津市行政課の金原三郎課長が説明する。

 「原爆マグロ」をはじめ、人々に放射能への恐怖を知らしめたビキニ被災は、日本で原水爆禁止を求める大衆運動がわき起こる契機でもあった。広島、長崎で、夏の原水爆禁止世界大会が始まった。運動団体は、焼津でも三月一日を中心に、久保山愛吉さんの墓前祭をはじめ、各種の集会を今に続ける。

 「焼津の若い人は、もうビキニとのつながりを知りはしない」。焼津で「原爆マグロ」の放射線量測定にあたった元高校教諭塚本三男さん(73)の言葉が、ビキニ被災と市民たちとの「距離感」を物語る。

「原点」に戻る

 三月一日前後の集会やデモ行進の参加者の多くは、県外の人たちだ。運動団体をめぐる政党の介入、それらに伴う夏の世界大会の分裂…。多くの焼津市民たちにとって、ひとごとのような騒ぎが続いた。「焼津に政治が持ち込まれる」と、敏感に反応する市民もいたという。乗組員たちをめぐる地元のぎこちない雰囲気が、それに重なった。「事件を忘れよう」との流れは、そうして生まれてきた。

 塚本さんは「原爆マグロ」に近づけたガイガーカウンターの音を覚えている。「ガリガリ」とそれは、マグロのなき声のように聞こえた。現在の世界の核状況について、あの音を「原点」に考えなければならない―。塚本さんは昨年から、運動団体とは別の集会で、体験証言を再開している。

(2004年2月27日朝刊掲載)

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