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連載・特集

[ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 日常のカケラ 埋めていく

 米国の原爆投下により、広島では市民生活に関わる行政資料などが大量に失われた。街の姿を知ろうにも、現存する被爆前の写真は限られる。ならば、公的機関や個人の手元に奇跡的に残る一枚を寄せ集めて、記録の「空白」を埋めていこう―。中国新聞社が募って以来、商店街の日常や家族との思い出が刻まれた貴重なカットが読者から寄せられている。一方、原爆資料館(中区)が近年新たに入手した米軍による空撮は、徹底的に焼き尽くされた爆心直下と周辺を、広大な「面」として冷徹に記録する。両方の写真を通して、全てが絶たれた「あの日」を思う。(水川恭輔、山下美波)

家族の形見 思い巡らせる

「見るたび、両親から受けた愛情を感じます」

「平和へのメッセージ、父からの遺産と思う」

 「写真を見るたび、両親から受けた愛情をひしひしと感じます。弟は、がんぼ(わんぱく)でねえ」。廿日市市に住む井上良候(よしとき)さん(90)は、唯一の家族写真を中国新聞に寄せた。兄が袋町国民学校(現袋町小、広島市中区)の鉄筋校舎の建設に携わっており、その記念で1941~42年ごろ撮ったという。

 実家は旧細工町の「坂井誠美堂」。掛け軸や額の制作・販売をしていた。近所の広島県産業奨励館(現原爆ドーム)の敷地は、友人と竹鉄砲を向け合う「戦争ごっこ」の遊び場だった。原爆が約600メートル真上でさく裂し、爆心地となった島病院(現島内科医院)も同じ町内だ。

 3歳年下の弟正信さんと特に仲が良かった。時に兄弟げんかもしたが、家で将棋をするなどいつも一緒だった。

 井上さんは45年春に広島師範学校(現広島大)へ進み寮生活を送った。8月5日は日曜日のため、一時帰宅。父の坂井典夫さん=当時(59)、母ユクさん=同(55)=と久々に食卓を囲んだ。県北に集団疎開していた袋町国民学校6年の正信さん=同(12)=も、体調を崩して前日から自宅にいた。

 その夜のうちに寮に戻った井上さんは、爆心地から4キロの校内で翌朝被爆した。激しい火災で市中心部に近寄れず、一睡もできないまま7日朝に自宅を目指した。「音のない世界。聞こえるのは自分の軍靴の音だけでした」。散乱する死体を避けながら、たどり着いた爆心直下のわが家に、家族の姿はなかった。

 廃虚の市内を、ひたすら捜し歩いた。袋町国民学校の鉄筋校舎は外郭のみを残し、窓にむしろが掛けられた無残な姿と化していた。救護所になったと知らず、負傷者を確認せずに通り過ぎたことを今も悔やむ。遺骨は見つからないままだ。

 戦後、復員した兄夫婦に学費を捻出してもらって卒業し、小学校教員になった。退職後は、遊び場だった原爆ドームの前で修学旅行生に体験を語ってきた。「弟の疎開中の暮らしぶりを知りたい。今もそう思うんです」。家族写真を多くの人に見てもらうことで、弟の同級生から情報が得られることを願う。

 袋町国民学校のすぐ近くの旧西魚屋町の写真も、取材班に寄せられた。原爆資料館によると、繁華街の本通り商店街から南にはずれた筋のため、絵はがきなどになりにくく、珍しい。

 「喫茶フラゥア(フラワー)」の店主だった三島捨一さんは、カメラが趣味だった。古びた茶色のトランクを開くと、生活感あふれるプリントが詰まっていた。棚にビール瓶が並び、店員と客が笑顔を見せる店内の写真も。世話好きで、古里の瀬戸村(現福山市)の出身者が当時の宇品港から戦地に赴く前、店で酒やごちそうを振る舞う「壮行会」を開いていた。

 三島さんは外出中に被爆し、2日後に46歳で亡くなった。長女千鶴子さんのほか、叔父たち親類3人も犠牲になった。

 トランクの写真は、当時3歳で母と疎開していた長男健治郎さんが受け継いだ。妻温子さん(74)=福山市=によると、幼くして引き裂かれて顔もはっきりと思い出せない父親の形見として、3年前に75歳で亡くなるまで慈しむように保管していた。

 温子さんは、健治郎さんが生前に写真への思いをつづった文章も合わせて寄せてくれた。「戦時中も明るく懸命に生きた人達の幸せを原爆は一瞬で奪った。写真は平和へのメッセージ、父からの遺産と思う」

被爆前の写真 ウェブに1000枚 読者提供続々

 公的機関の所蔵資料から、取材班がくまなく収集。読者からも個人所蔵の一枚が次々と提供されている。ウェブサイト「ヒロシマの空白 街並み再現」にアップした被爆前の市内の写真は、21日の追加公開分で計千枚に達した。1月の開設以来、読者とともに内容を充実させている。

 田曽勝代さん(76)=広島市佐伯区=の手元には、夫の祖父が平田屋町(現中区)で営んだ「タソヤ百貨店」の写真があった。原爆で店は壊滅し、戦後は繁華街の本通りから撤退した。広島積善館(中区)の岡原秀登会長(77)は、1928年撮影の店の外観を寄せてくれた。

 安佐南区に住む104歳の瀬川美智子さんが寄せた1枚は、県立広島商業学校(現県立広島商業高)の野球部が29年に夏の甲子園で優勝し、広島駅に凱旋(がいせん)した時のものとみられる。33年に完成した県立広島第二中(現観音高、西区)の50メートルプールを写した1枚は、西区の菊崎芳幸さん(77)の提供。父の遺品で、処分予定だったが紙面を読んで提供を決めた。

 原爆で焼かれ、変わり果ててしまう前の地域や生活の姿を知ろうと、広島では60年代後半から官民を挙げた街並みの「復元調査」が行われた。なおも「空白」は残った。写真は、個人の思い出の品であるとともに、ヒロシマの貴重な「資料」にほかならない。

紙面編集・山本庸平

(2020年6月21日朝刊掲載)

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