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連載・特集

『生きて』 被爆教師 森下弘さん(1930年~) <7> 結核で闘病

死の床脱し教職に就く

  ≪1946年春から祇園高等女学校(現AICJ中高、広島市安佐南区)の寄宿舎に身を寄せた≫

 父が教壇に立つことになり、私たち兄妹3人も六畳一間に住まわせてもらった。校庭でイモなんかも作ったね。調理室のくどを使い、主に父が食事をこしらえてくれました。

 48年に5年生で中学を卒業し、広島高等師範学校へ進んだ。が、学制改革があってね。翌年、新制広島大の文学部を受験して入り直したわけ。通ったのは東千田(中区)です。友人が増え、下宿を行き来するのも楽しかった。登山の面白さを知ったのも大学時代。山岳部に誘われ、槍ケ岳なんかに登りました。

  ≪大学3年になり、結核を患う≫

 山で風邪をひいた後、医者から「すぐに休め」と言われたのに、試験前だからと無理したのがまずかった。1年休学し、寄宿舎の隅っこの部屋で隔離生活を送ることになってね。半年ごとに東広島の療養所で気胸の治療を受けた。父が借金までして高額な薬を使わせてくれました。

 その頃、友人の勧めで短歌を始めたんです。結社にも入った。当時の結核はがんと同じで、みんな死を思うわけ。だから苦悩を詠んだ歌が多いね。そのうち詩も書くようになり、詩集も何冊か出しました。

 病気は長引いたね。復学後にぶり返し、もう1年休学したんです。療養中に新聞の切り抜きも始めた。朝鮮戦争、米国の水爆実験などの問題を深く考えるようになりました。水爆実験の強行には、「地球が溶けてしまうかもしれん」との恐れを抱いた。平和運動を始めるきっかけの一つになったかもしれません。

 ≪卒業後、父と同じ職場(当時は大下学園祇園高)で働くことになった≫

 卒業が2年も遅れた。就職は悩みの種でした。きっかけをくれたのは父です。「書をやれ。芸は身を助ける」とね。復学後、必死で単位を取り、大下学園で国語と書を教えることになったんです。まだ結核治療を続けていたから、教壇に立つのは週2、3日。それでも床を脱して働けるということが、うれしくてたまらんかった。でも、私は当時よく言われた「でもしか先生」でしょうね。先生にでもなるか、先生しかできん―。そう思っていましたから。

(2022年4月28日朝刊掲載)

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