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連載・特集

『生きて』 被爆教師 森下弘さん(1930年~) <9> 長女誕生

平和活動へ背中押され

  ≪1961年、妻常子(ひさこ)さん(87)と結婚した≫

 フルタイムの教員になると見合い話がいくつかあった。本人に会う前にお兄さんに品定めされ、この顔を見て断られる、なんてこともありました。妻は偶然、兄が私と同じように動員先の鶴見橋西詰め(広島市中区)付近で被爆し、顔をやけどしていた。だから気を使わなくていいというか、安心感があって。彼女も書をやってるという共通点もあった。市内の教会で式を挙げ、仕出屋さんでささやかな披露宴を開きました。

 ≪63年1月、長女が誕生する≫

 あの日は大雪だった。だから千雪と名付けたんです。産院の別室で火鉢にあたりながら待つ間、原爆の影響があったら…と不安でね。妻も産後、真っ先に「どこも異常なし。良かったね」と。ほっとしました。

 その娘が目も開かないのにおっぱいにしがみついてる。その姿に感動しました。すごい生命力だ、と。後ろ向きだった自分の背中をぽんと押してもらったようにも感じた。それにね、すやすや寝てる娘の顔を見ていたら、ふと原爆で真っ黒焦げになった幼児がオーバーラップする。そして強く思うんです。「あんなことが二度とあっちゃいけん」と。

 当時の教え子はちょうど、原爆投下を体験していない世代になっていました。彼らと接点を持つ自分が体験を伝えないでどうする、という気持ちになっていったんです。

 ≪その気持ちに押され、米国人平和活動家の故バーバラ・レイノルズが発案した「広島・長崎世界平和巡礼」(64年)の選考会に参加する≫

 「サンカ パス」の電報には大喜びでした。医師、科学者、主婦…。いろんな被爆者が選ばれ、それぞれ通訳が付く。総勢約40人が3コースに分かれて米国を巡り、さらに東西ドイツやソ連なんかで体験を語るんです。旅程は2カ月半ですよ。勤め先の廿日市高もよく休ませてくれたと思います。

 広島代表には物理学者の庄野直美さん、62年の第1回巡礼に次ぐ参加で、植皮などの手術を受け「原爆乙女」とも呼ばれた松原美代子さん(いずれも故人)たちがいた。4月に箱根で研修し、羽田へ。胸を躍らせながら飛行機に乗り込んだんです。

(2022年4月30日朝刊掲載)

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