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連載・特集

『生きて』 被爆教師 森下弘さん(1930年~) <12> WFC

世界への架け橋目指す

  ≪廿日市高の教諭時代にもう一つ、大掛かりな意識調査を始めた≫

 対象は母校、広島一中(現国泰寺高)の同級生。発端は同窓会です。「あの時は大変じゃったのう」「今どうしとるんか」という話になるでしょ? 聞けば、被爆後の生き方も考え方もまるで違う。同じ場所で同じように被爆した同級生でもね。それで、原爆被害を体系的に知ることができるかもと思い立ったんです。

 初回は1967年でした。が、内容がシンプルでね。質問項目を増やし、74年にも調べた。被爆の瞬間に感じたこと、その後の行動、卒業後の歩みなど15枚にもわたる調査票になりました。35人が回答してくれて、原本は原爆資料館(広島市中区)に保管してある。本人や家族、研究者には見てもらえます。

 ≪ワールド・フレンドシップ・センター(WFC)理事長に就いたのも、廿日市高時代の86年だった≫

 初代理事長で被爆者の治療に尽力した原田東岷(とうみん)先生(99年死去)を入院先へお見舞いに行った時に懇願されたんです。つぶさんでくれ、と。私に力量があるとは思えず、現職の教員だったから不安もあった。でも原田先生にも創設者のバーバラ・レイノルズさんにも、恩返ししたい思いがありましたから。

 私も参加した世界平和巡礼を64年に実現させたバーバラさんは、「これで終わりにしたくない」と思っておられた。異なる人種、宗教、政治的信念を持つ人々が世界中から集まり、語らい、通じ合う―。広島と世界の架け橋になるような場所を志し、65年の開設にこぎ着けたんです。私も当初から関わり、国際情勢の学習会なんかに出とりました。そのうち米国や韓国と使節団を交換したり、広島を訪れる人をガイドしたりする活動が定着したんです。

 バーバラさんは69年の帰国後も活動をやめなかった。オハイオ州のウィルミントン大に原爆関連資料を集めた文庫を設けたり、私らを現地に招いて平和教育会議を開いたり。私財を平気でなげうち、自分のものは車でも何でもおんぼろで。強くて優しい人でした。90年には米国での葬儀に原田先生と参列した。式も質素でね。「あんまりだ」と、原田先生が花を買いに走られたほどでした。

(2022年5月5日朝刊掲載)

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