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連載・特集

『生きて』 被爆教師 森下弘さん(1930年~) <13> 書家として

作品に託す反核の願い

  ≪1990年、広島県立廿日市高教諭を退職。同年から島根大、95年からは広島文教女子大(現広島文教大、広島市安佐北区)で、いずれも教授として書道を教えた≫

 大学には70歳まで勤めさせてもらった。今も自宅で教え、私自身も年2回、所属グループの展覧会に作品を出しています。雅号は「森下清鶴」。最初についた先生から「鶴」の字をいただきました。

 書の世界は奥深い。まだ道半ばです。絵画と違い、白と黒のシンプルな世界でしょう? 線の流し方、文字の配置…。完璧と思える域になかなか届きません。体力も衰え、すぐしんどくなるしね。ただ、書きたい詩と出合えた時はうまくいく。おのずと原爆を扱った書も多いです。69年に日展で入選した作品もそう。「ガード下にみゝずのように転がる黒焦(くろこげ)の少年は苦痛を言わない」。あの日、饒津(にぎつ)神社(東区)そばで、実際に目にした光景です。

 碑の揮毫(きごう)もいくつか任せてもらった。例えば、原爆資料館(中区)にある「ローマ法王平和アピール碑」。「戦争は人間のしわざです」に始まる碑文を担いました。26年務めたワールド・フレンドシップ・センター理事長を退く前年の2011年には、平和記念公園(同)そばに故バーバラ・レイノルズさんの碑も建てた。碑文は「私もまた被爆者です」。彼女の言葉を刻みました。広島を愛し、被爆者の苦しみに心を寄せ続けてくれた人がいたことを、ぜひ知ってほしいですね。

 尊敬する人は日本被団協メンバーにもいます。例えば代表委員も務めた森滝市郎さん(94年死去)。核実験のたび座り込みをする姿に共感し、隣に座ったこともある。米ニューヨークであった82年の第2回国連軍縮特別総会もご一緒しました。

 私には平和教育という仕事があったから被団協に入らなかったが、機会がある都度、行き来はさせてもらった。自分の学びになりますから。原水爆禁止世界大会にしてもよく参加しました。路線対立から運動が分裂し、日本原水協と原水禁国民会議が別々に大会を開くようになっても、両方に出ていた。思想は関係ない。平和のためにできる事は何でもしたい―。そう思ってきました。

(2022年5月6日朝刊掲載)

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