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「歌謡ひろしま」 古関の草稿 幻の歌 練った跡分かる楽譜発見 被爆地の文化復興 たどり直す資料に

 広島に原爆が投下された翌年、復興へ市民を元気づける歌が生まれた。中国新聞社が歌詞を募り、作曲家の古関裕而が曲を付けた「歌謡ひろしま」である。音源はなく資料も残っていなかったが、このほど古関が思いついたメロディーなどを書きとめた草稿が見つかった。被爆地広島を題材にした最も初期の曲。ヒロシマの歩みをたどり、考察する上で貴重だと研究者も注目している。(論説委員・田原直樹)

 見つかったのは、「ひろしま」と表題を付けた楽譜2枚。メロディーや伴奏の音符や数字が、五線譜に青いインクで書き込まれている。イントロ部分と、旋律・ピアノ伴奏部分を別々に記述。考え直したのか×印を付けた部分もある。この草稿を清書し、中国新聞に送ったようだ。昭和21年8月9日付の紙面に掲載された譜とほぼ合致する。

 福島市にある古関裕而記念館の収蔵庫で、3月まで学芸員だった氏家浩子さんが見つけた。2年前、本紙の取材で「歌謡ひろしま」の存在を知っていたため、すぐに当時の中国新聞掲載の譜と照合し、草稿だと確認した。「戦後すぐラジオドラマの曲を作るが、被爆地のためにも書いていたとは。人間像を考える上でも発見は意義深い」

 古関の長男正裕さん(75)=東京都=は「浮かんだメロディーを書いた、いわばスケッチですよ」と語る。福島に記念館ができる際、書庫などにあった資料をまとめて送ったといい、「未整理だったのでしょうが、出てきてよかった」。

 中国新聞社は1946年6月末、被爆1周年事業として歌詞を募集。500を超す応募作から市内の歌人山本紀代子さんの詞を選んで作曲を古関に依頼した。見つかった草稿は7月ごろ、届いた詞を基に曲を練った跡とみられる。

市民が合唱

 曲の完成を報じた8月の紙面に、古関は「苦心して何処(どこ)でも誰にでもうたへるやうにしたつもり」「これがやがて広島全市民の口になめらかに浮んで来る日を待つてゐる」とコメントを寄せた。9月、広島市内で曲の発表会があり、大勢の市民が合唱した。だがその後は忘れられていた。

 1909年福島市生まれの古関は、コロムビア専属の作曲家となり、軍歌「露営の歌」が大ヒット。戦時中、国威発揚の楽曲を数多く作曲した。戦後は「高原列車は行く」「イヨマンテの夜」などを作り、昭和を代表する音楽家となった。「栄冠は君に輝く」、東京五輪行進曲「オリンピック・マーチ」も知られる。2年前、古関をモデルにしたNHKのドラマ「エール」がきっかけとなり、再評価が進む。

 幻の歌となっていた「歌謡ひろしま」も、本紙取材で覚えている人が見つかった。文化復興に果たした役割を指摘する声もある。

最初期の曲

 ヒロシマの音楽史を研究する能登原由美さん(京都市)は、「歌謡ひろしま」を「広島に捧(ささ)げられた最初期の楽曲」と位置づける。「実物資料が出てきたのは驚きであり大変貴重だ」と語る。被爆翌年は山田耕筰「原子爆弾に寄せる譜」などが作られたと記録はあるが資料は残っていない。

 歌詞にも着目する。占領下の当時は、原爆被害ではなく復興に目を向ける風潮があったにもかかわらず、「1番の詞は、希望を歌う2番以降と異なり、被爆者の悲しみが感じられる」と能登原さん。「詞に合う節回しに古関は苦心したのでしょう。ボツにした部分も残り、創作過程がうかがえる点でも重要」とみる。

 古関の「長崎の鐘」はよく知られるが、その3年前にヒロシマに寄せる音楽を手掛けていた。47年には、長崎市民の求めで追悼盆踊りの音頭も書いている。

 被爆地の思いは歌にどう表現されてきたか―。あらためて音楽作品から文化復興の歩みをたどり直すこともできるのではないか。また歌い継ぐことは被爆体験の継承につながるはずだ。

(2022年5月11日朝刊掲載)

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