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社説・コラム

『潮流』 かなわなかった帰郷

■ヒロシマ平和メディアセンター長 金崎由美

 ハワイ在住の被爆者ハイキ光子さんから昨年2月、3個のオーガニックせっけんが送られてきた。練り込まれた黒い粒は名産コナコーヒーの出し殻。大学生の孫が学内の起業コンテストに参加して商品化に発展したそうだ。孫の活躍を喜んでいた顔が、目に浮かぶ。

 爆心地から最も近い本川国民学校(当時)の卒業生。12歳の時、進学先の女学校へ通学中に被爆した。家は焼け、母は行方不明に。翌月、身を寄せたバラックで祖母をみとり、後に父も白血病で失った。ほどなく移り住んだ山口で中学に通えないまま就職し、17歳で福岡の米軍施設に勤めた。そこで夫となる米国人と出会ったという。

 2018年に一時帰国した際、本川小を73年ぶりに訪れて体験を語った。「原爆で全てを失った」「でも今は幸せです」。児童の校歌合唱に目を潤ませ、一緒に口ずさんだ。

 これを機に、原爆を生き延びた同級生や同小関係者らとつながった。「会いたい」との願いは断ちがたく、20年3月に再び帰国するはずだった。だが新型コロナウイルス禍で延期に。「とても残念…またお会いできる日を夢見てます」とメールが届いた。昨年の一通には「秋にはお会いできますように」とあった。

 願いはかなわなかった。先月訃報が届いた。享年89歳。「ハイキさんを訪ねて、ホノルルマラソンも走ります」という私の約束も果たせなかった。

 「戦争がなかったら、福屋で買い物をしておいしいものを食べていただろう」と生前思っていたという。この上なく家族に恵まれたその後の人生でも、「戦争がなかったら」の一言は一生心の奥に残るのだろう。

 コロナ禍の2年は残酷なまでに長い。改めて痛感する。同時に、古里との絆を紡いだ晩年の感慨を、せっけんが徐々に減るのを惜しみつつ想像している。

(2022年5月12日朝刊掲載)

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