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連載・特集

被爆60周年 明日の神話 岡本太郎のヒロシマ 第1部 壁画の誕生 <1> 依頼主

大きな人に大きな絵を

実業家、アトリエ提供

 メキシコ市の目抜き通りに面し、地上五十階建て、高さ百七十二メートルの威容を誇る世界貿易センター(WTC)ビル。原爆をテーマにした岡本太郎の大壁画「明日の神話」は、この建物のロビーを飾る目的で、一九六〇年代末に描かれた。

 照りつける太陽と青空を映す超高層のガラス張りの姿は、首都のシンボル的存在だ。入り口をくぐり、ロビーを見渡してみる。しかし、壁画にまつわる痕跡は今、何一つ見当たらない。

 建物は九四年にWTCに転用される以前、「オテル・デ・メヒコ」ビルと呼ばれていた。「メキシコホテル」を意味する名の通り、国を代表する最高級のホテルを目指し、実業家の故マニュエル・スワレスが六六年ごろ建設に着手。岡本に壁画を依頼したのも彼である。

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 「父は、とにかく大きいものが大好きだった。建物も、絵も、人物も。岡本さんを、大作にも尻込みしない『大きな人』だと直感し、仕事を任せたのだと思う」

 息子でエンジニアのマルコス・スワレスさん(69)が、WTCの隣接地にある父の銅像を見やりながら語る。スワレスが二人目の妻との間にもうけた十二人きょうだいの長男。先妻との間にも八人の子がいた。「家族についても、大きいことを好んだ人だった」とマルコスさんは笑う。

 スペインに生まれたスワレスは、十四歳でメキシコに移住。穀物卸商を振り出しに、石綿セメントの会社経営、観光開発などへ手を広げ、一代で財を築いた「たたき上げ」だ。メキシコ壁画運動の巨匠ダビッド・アルファロ・シケイロスら、芸術家のパトロンとしても知られた。財閥の命運をかけた新しいホテルにも、話題となる作品を求めていた。

 直感で動く、即断即決の人だった。ビジネスパートナーだった日系移民の造園業者から、「日本に岡本太郎という面白い芸術家がいて、メキシコへの関心も深い」と紹介されると、面会のためすぐ日本へ飛んだ。六七年七月のことだ。

 二人は瞬く間に意気投合する。岡本は当時、大阪万博のテーマ展示プロデューサーに就任し激務のさなかにあったが、壁画の話はその場でまとまった。岡本もまた、即断即決の人だった。

 岡本は、東京のアトリエで下絵の制作に取り掛かる。画面の中央、「核に焼かれる人間」をモチーフにした骸骨(がいこつ)から、ぐいぐいと筆を走らせた。

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 六八年春。岡本は完成した下絵を携え、メキシコ市にスワレスを訪ねる。岡本の説明を聞きながら、スワレスは一言も発さず、ひたすら絵に見入った。そして、スーパーマーケットを建設中だった市内の敷地を、巨大なアトリエとして岡本に提供した。ビジネス上、対米関係が圧倒的に重要なメキシコで、ホテルのロビーを「原爆の絵」が飾ることにゴーサインを出したのだ。

 「私自身は、挑発的な絵だな、という印象を持ちました」とマルコスさんは語る。「しかし、父は芸術に理解のあるクリエーターであり、表現の自由をとても重んじた。絵の意味を十分に理解し、その上で、迷いは全くなかったと思う」

 「ヒロシマナガサキ」。スワレスは、「明日の神話」を自分ではそう呼んで、周囲に紹介した。(道面雅量)

(2005年1月5日朝刊掲載)

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