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連載・特集

被爆60周年 明日の神話 岡本太郎のヒロシマ 第1部 壁画の誕生 <2> 日系の風雲児

制作依頼 仲取り持つ

情熱家同士で意気投合

 実業家マニュエル・スワレスと岡本太郎を引き合わせ、メキシコで壁画「明日の神話」が生まれるきっかけをつくったのは、現地で造園業を営んでいた一人の日系移民である。

 岐阜県出身の小栗順三さん(一九二二―八三年)。経営した「小栗造園」は、六八年のメキシコ五輪でオリンピック村の庭園を手掛け、壁画を飾るはずだったスワレスのホテル建設の下請けにも入っていた。

 メキシコ市から南に七十五キロの別荘地クエルナバカに、妻のふじ子さん(74)を訪ねた。広い庭にプールも備えた邸宅の中には、岡本の絵が十点近く飾ってある。テーブルの上の灰皿も、一目でそれと分かる岡本のデザインだ。

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 「小栗は、岡本さんと本当に気が合ったようすでした。生きていたら、喜々として思い出を語ったでしょうに」。亡夫と岡本が並んで写るアルバムをめくりながら、ふじ子さんはつぶやく。「二人とも、常人離れしてエネルギッシュなところがそっくりでした」

 小栗さんはメキシコの日系社会で「風雲児」と呼ばれ、波乱の生涯は今も語り草になっている。

 幼いころ実家が没落し、大阪に奉公に出された後、苦学して英語を身に付けて東京・帝国ホテルの給仕に。そこへ、豪華帆船で世界周遊中のスウェーデンの大富豪ウエナーグレン夫妻が宿を取り、小栗少年がルームサービスを担当した。

 夫妻は、利発な彼をいたく気に入り、船への同乗に誘う。十六歳の船出だった。

 一九四一年、船がメキシコ湾に入った時に太平洋戦争が始まり、航海続行が不可能になる。夫妻は行き場を失った小栗少年に、メキシコで購入した植物園の支配人を任せた。

 小栗さんは以後、自らの才覚で観葉植物や果樹の栽培に手を広げ、独立してメキシコ有数の造園業者に上り詰める。七〇年代にエチェベリア大統領から国営農場の監督も任されるほど政財界で信望を集め、スワレスとも心安い間柄だった。

 「小栗が薦める人なら間違いない」。スワレスが遠い日本の芸術家に大仕事を頼む気になったのは、そんな信頼と期待があったからこそだろう。

 では、小栗さんと岡本の接点はどこにあったのか。メキシコ岐阜県人会会長で、小栗造園に長く勤めた小木曽貞義さん(70)は「小栗社長は仕事上、建築家の知り合いが多く、丹下健三さんとも親しかった。丹下さんを共通の友人として知り合ったと思う」と話す。

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 丹下さんは、「太陽の塔」を囲む大阪万博の基幹施設や、岡本のレリーフがあった旧東京都庁舎を手掛けた岡本の盟友。広島の平和記念公園の設計者でもある。原爆をテーマにした「明日の神話」の誕生にも一役買っているとすれば奇縁だ。

 小栗さん宅では九八年になって、「明日の神話」の下絵が見つかっている。縦一・三メートル、横七・三メートル。三分割してシーツに包まれ、居間のソファの陰に隠れていた。

 絵の両端の下側に、長方形の余白がある。壁画を設置するホテルのロビーの出っ張りに合わせたもので、現存する四枚の下絵のうち最終稿とみられる。小栗さん宅に持ち込まれた経緯は定かではない。

 メキシコ壁画運動の関連作品を収集方針とする名古屋市美術館がいち早く情報を入手し、寄贈により収蔵した。

(2005年1月6日朝刊掲載)

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