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連載・特集

被爆60周年 明日の神話 岡本太郎のヒロシマ 第1部 壁画の誕生 <5> 「前史」の絵

ピカソに対抗し制作

「ゲルニカ」 強く意識

 巨大壁画「明日の神話」の制作に先立つこと十年余り、岡本太郎は、やはり原爆をテーマにした油彩の大作「燃える人」を描いている。現在、東京国立近代美術館が所蔵する。メキシコからいったん離れ、この絵の物語を「前史」として追ってみたい。

 一九五五年、東京で開かれた第三回日本国際美術展への出品作。めらめらと燃える原色の炎にまみれ、大きな目玉や内蔵のようなものがのたうち回り、核時代における人間性の解体を象徴する。左下の船は、前年、太平洋ビキニ環礁で被曝(ひばく)した第五福竜丸を意識したのだろう。

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 「明日の神話」に描かれた燃える骸骨(がいこつ)が静かに炎を噴き上げるのに比べ、大音響が聞こえてきそうな錯雑した構図。ただ、悲惨を突き抜けた哄笑(こうしょう)の趣は、両作品に共通している。

 同展には、世界十二カ国から選抜された五百二十人余りが出品した。当時の美術誌をめくると、岡本作品に対する評価はあまり芳しくない。ベストテンを決める投票でも選外に甘んじている。

 だが、岡本自身は相当な思い入れを持って制作した。この展覧会に、巨匠パブロ・ピカソが「ゲルニカ並みの傑作」を出品するとの話が伝わってきて、それに太刀打ちしようという気概を込めて描いた作品なのだ。

 ピカソは、岡本が生涯、強烈なあこがれと対抗心を燃やした画家である。自身の著作「青春ピカソ」(新潮社)には、パリ留学中に彼の絵に出会って「グンと一本の棒を呑(の)み込まされたように」身動きできなくなり、とめどなく涙があふれた体験が、生き生きと記されている。以後、岡本は「ピカソを乗り越えることがわれわれの直面する課題である」と情熱をたぎらせる。

 岡本のピカソ熱の中でも、「ゲルニカ」への思いは別格だった。ピカソが三七年、祖国スペインの町を襲ったナチスドイツの無差別爆撃を絵筆で告発した縦三・五メートル、横七・八メートルの記念碑的大作。芸術と社会のかかわりを深く思考し続けた岡本は、この作品について「近代美術史の輝く一頂点」と最大限の賛辞を贈っている。

 一方で、その暗い画面には、「ファッショ的暴力に対する小市民インテリゲンツィアの無力感」「十九世紀的絶望」が漂っている―とピカソの限界を指摘し、創作者としてその壁の突破を誓う。「燃える人」は、その試みの一つだった。

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 ただ、岡本の気負いをよそに、ピカソが実際にこの展覧会に寄せたのは静物画の小品だった。岡本は「肩すかしを食った」とこぼしている。

 岡本は翌五六年、原爆というテーマをさらに掘り下げるようにして油彩「死の灰」を描く。その後、原爆を直接に扱った作品はしばらく途絶えるが、六七年、メキシコの実業家の依頼を受けて「明日の神話」の制作が始まる。

 この時、岡本の念頭に、「燃える人」から引き続いて「ゲルニカ」への意識があったかどうかは分からない。しかし、「明日の神話」が「岡本のゲルニカ」と呼ぶにふさわしい作品であるとはいえるだろう。テーマからも、サイズからも、それぞれの画業に占める位置からも。

 年譜をたどると、ピカソが「ゲルニカ」を描いたのは五十六歳の時。岡本が「明日の神話」に取りかかったのも同じ年齢だった。

(2005年1月11日朝刊掲載)

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