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社説・コラム

社説 沖縄復帰50年 「本土並み」実現せねば

 「沖縄の復帰なくして日本の戦後は終わらない」。山口県選出の首相佐藤栄作がそう述べた沖縄の本土復帰から、きょうで50年を迎えた。

 沖縄は太平洋戦争末期、激しい地上戦で県民の4分の1が命を落とした。27年間もの米軍統治下で辛酸をなめ、沖縄は本土復帰にあたって基地を「本土並み」に減らすよう、強く求めていた。

「平和の島」願う

 しかし今も在日米軍専用施設の70・3%が、国土のわずか0・6%でしかない沖縄に集中する。割合は復帰時の58・8%から逆に増えている。なぜ自分たちだけが基地を押しつけられるのか―。沖縄の人たちの憤りが払拭される状況ではない。

 復帰時に政府と県が共有したのが「沖縄を平和の島にする」という目標だった。その願いがかなっていない現実から私たちは目をそらしてはならない。

 玉城デニー知事は新たな建議書を公表し、沖縄の将来に向けて基地の大幅な整理縮小や日米地位協定の抜本改定などを岸田文雄首相に求めた。沖縄県議会も基地縮小などを求める決議を全会一致で可決した。基地負担に苦しむ沖縄の現状を改めて強調した形である。

 中国新聞社が加盟する共同通信社の調査では、沖縄の基地負担が他の都道府県と比べて「不平等」と回答した人が「どちらかといえば」を含めて79%に上った。本土の人たちも、沖縄の現状には問題があると受け止めているのだろう。

 ただ、基地の一部を沖縄県外で引き取る意見には58%が賛成する一方で、自分が住む地域への移設には69%が反対した。沖縄の立場は理解しても基地が近くに来るのは困るという思いが透けて見える。日米両国の安全保障体制に頼りながら、その負担の多くを沖縄だけに押しつける意識は、改める必要があるのではないか。

新基地反対72%

 安全保障は国家間の取り決めである。本来ならば政府が米国に地位協定改定や基地機能の縮小を求めていくのが筋だ。しかし最近の基地問題は日本政府と沖縄県の対立の構図にしかなっていないのはなぜだろう。

 復帰について協議した1972年1月の日米首脳会談で日本側は沖縄の基地縮小を繰り返し求めた。佐藤は復帰直後の首相退任時、屋良朝苗知事(当時)に「整理縮小の姿勢と方向性は示されたが具体的に実現できなかった」とわびてもいる。

 先の戦争だけではない。琉球王国だった沖縄は1879年、明治政府により強制的に日本に統合された歴史もある。いつまでも沖縄に本土側の都合を押しつけ続けることは許されない。

 名護市辺野古の新基地建設を巡る2019年2月の県民投票では72%が「反対」の意思を示した。県民の思いをくめば、工事を強行することが最善とはいえないはずだ。

目立つ強権姿勢

 スペインの米軍基地がイタリアに移された例もある。にもかかわらず安倍、菅両政権は米軍普天間飛行場(宜野湾市)移設について「辺野古が唯一の解決策」とごり押ししてきた。新基地建設に反対する故・翁長雄志(おながたけし)知事や玉城知事に強権的な姿勢で応じ、翁長氏が沖縄の思いを伝えようとした際も、菅義偉官房長官(当時)は「私は戦後生まれ。歴史を持ち出されても困る」とまで言い放った。

 岸田政権でも流れは変わっていない。22年度の沖縄振興予算は10年ぶりに3千億円を下回る2680億円に減額された。

 沖縄の県民所得は全国平均の7割しかない。50年にわたる振興計画で13兆円以上を投じてなお格差があるのに適切な対応とはいえまい。新基地に賛成すれば金は出すが、反対すれば干すという姿勢では「分断」はさらに深まるだけだろう。

 岸田首相は原爆に見舞われた広島県選出である。沖縄と痛みを共有できると思う―。玉城知事は何度も期待感を口にしてきた。被爆地の首相として沖縄に寄り添ってもらいたい。それが日本という平和国家を率いる指導者にはふさわしい。

(2022年5月15日朝刊掲載)

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