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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅲ <1> 日本のビスマルク 伊藤博文 立憲国家の立役者

 千円札の伊藤博文には右肩上がり経済の昭和期後半がよく似合う。光市束荷(つかり)の農家に生まれた利発なわんぱく少年が首相を4度務め、天皇に最も信頼された出世物語。陽気で誉れ好きなのも太閤秀吉に似ている。

 自らが範としたのは統一ドイツの鉄血宰相ビスマルクだったようだ。シガーのふかし方までまねたとのうわさを浜田市旭町出身の歴史家服部之総(しそう)が著書「明治の政治家たち」(1950年)で紹介している。

 それでも伊藤をビスマルクに擬した評者が誰一人いないのは正直なものである―。そう揚げ足を取る服部も「日本のビスマルクがしとげなければならない基本的な工事をものの見事にしあげた者は、かれであった」と率直に評価した。

 明治17(1884)年の華族令、18(85)年の内閣官制、19(86)年の帝国大学令、21(88)年の市町村制令と枢密院創設に続き、22(89)年に憲法発布を成し遂げた。

 維新の初志とも言える五箇条御誓文の「万機公論ニ決スベシ」を大久保利通亡き後、伊藤が実現させた。東洋初の立憲国家の創建だった。

 なだらかな山に囲まれた農村地帯の束荷。父で自作農の林十蔵は破産して萩城下に出て、下級武士の家の養子となり伊藤姓を名乗る。長男利助(後の博文)は14歳だった。

 伊藤が最後に束荷へ帰ったのは25歳の慶応元(65)年。長州藩使者として岩国に赴いた帰りに母の実家に寄り、ロンドン動物園で見たライオンの話を村人にした。生家跡に今、かやぶきの家が復元され、伊藤公資料館が1997年に開館した。

 その隣で晩年に自ら基本設計した旧伊藤博文邸が異彩を放つ。伊藤らしいと言うべきか、伊予から束荷に移住した遠祖・林淡路守通起の没後300年祭を催すために着工した2階建て洋館。完成目前の明治42(1909)、当主は旧満州(中国東北部)ハルビン駅で韓国人安重根(アン・ジュングン)に暗殺された。

 「老練無比の政治家」の死を在日ドイツ人医師のベルツは惜しみ、「日本のビスマルク」の呼称についての感想も記した。「成果の点では当たっていても伊藤は猪突(ちょとつ)猛進的でなく、振る舞い穏やかな彼の主義は日本にとって正しいやり方だった」と。(山城滋特別編集委員)

伊藤博文
 1841~1909年。萩で吉田松陰の教えを受け、英国に密留学。大久保暗殺後の明治11年から政府を主導し、同33年に立憲政友会を結成して政党政治の流れをつくる。同38年末から韓国統監。

(2022年5月17日朝刊掲載)

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