×

連載・特集

被爆60周年 明日の神話 岡本太郎のヒロシマ 第2部 反戦と反骨 <2> 戦争体験

絶望 「冷凍された歳月」

軍の中で「自由主義者」

 岡本太郎には、四年半に及ぶ従軍と抑留の体験がある。一九四二年一月、広島の宇品港から中国戦線へ向かい、四六年六月に復員した。戦後の岡本の創作や反戦の姿勢に大きくかかわる体験だった。

 十八歳から十年余りのパリ滞在中、岡本は徴兵検査を延期し続けていた。四〇年に帰国して検査を受けた時、周りは二十歳そこそこの若者ばかり。「自分はもう三十歳だから」と高をくくっていたら、まさかの甲種合格だった。

 まもなく日本は太平洋戦争に突入する。岡本にとって、こちらの方が「まさか」だった。海外事情に通じた岡本には、日本の国力を冷静に見る目があった。「ああ、おれは間違いなく死ぬ」。絶望的な気持ちで、十歳も年の離れた同期らと輸送船に乗った。

    ◇

 所属は当時、中国湖北省応城などに展開し、食糧、弾薬の輸送を主任務とする自動車第三十二連隊。乾燥地帯の土壁の兵舎で、岡本は殴られ通しの初年兵教育を受ける。それまで自分が賭けてきた世界観、モラルとは正反対の世界だった。

 同じ隊に所属し、戦後も親しくした内田以志夫さん(83)=東京都港区=は、「きまじめだが、およそ軍隊向きではない人だった」と岡本の記憶をたどる。「日本は負ける、とは言わないが、勝てない、と言って譲らなかった」。ほどなく「自由主義者」のレッテルを張られ、徹底マークされてしごかれた。

 岡本が「四番目主義」と自ら呼んだ、軍隊での振る舞いがある。「貴様らのザマは何だ! そこへ並べ」といきり立つ班長に、名乗り出て順々に殴られるという、軍隊ではありきたりの場面での行動。

 岡本の説によると、一人目は班長の気が早ってこぶしが外れたりと、効果的に決まらない。二人目、三人目と続いて、一番強烈に痛いのが四人目。岡本はその四番目に、がむしゃらに名乗り出るようにした。

 「弱気になって逃げようとしたら、状況に負ける。逆に、挑むのだ。無意味な挑みだが、それが私の生きる筋だった」と岡本は振り返っている。痛々しい逸話だが、軍隊の中でなお、へし折れなかった岡本の芯(しん)を物語る。

 そんな戦場でも、岡本は画家としての足跡をわずかながら刻んでいる。着任して間もないころ、上官の肖像画を描く岡本の姿をとらえた写真がある。フランス帰りの変わった兵隊が来たと興味を持たれ、声が掛かったのだろう。技術の確かさを証す写実的な絵が写る。

    ◇

 戦後、この絵が上官宅に保存されていたことが、戦友のつてで分かった。内田さんは「一緒に見に行こう」と誘ったが、岡本は「描かされた絵だ。見たくもない」と断ったという。

 二〇〇一年には、やはり戦友の寺内鉄雄さん(83)=神奈川県鎌倉市=が、保管していた岡本の戦場スケッチをテレビの鑑定番組に出して話題になった。隊が終戦後に捕虜生活を送った湖南省内の町で、絵好きの寺内さんのため、上官が岡本から譲り受けてくれた。

 終戦も近いころ、休息する兵士の姿を描いたペン画。優しい情感のある筆致に、どこか厭戦(えんせん)気分がにじむ。寺内さんはその後、岡本太郎記念館に寄贈した。

 岡本は戦争体験を振り返り、「わが人生であれほどむなしかったことはない」「冷凍された歳月」と総括している。「パリ時代に比べ、天国と地獄の差だった」と。

 岡本はパリで、どんな空気に触れていたのだろうか。

(2005年2月2日朝刊掲載)

年別アーカイブ