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連載・特集

被爆60周年 明日の神話 岡本太郎のヒロシマ 第2部 反戦と反骨 <3> パリ時代

「全き人間」感覚研磨

生きざまの骨格培う

 岡本太郎は一九二九年末、新聞社の仕事でロンドン軍縮会議を取材する漫画家の父・一平と母・かの子に同行し、渡欧する。翌年一月、フランス経由で英国入りした両親と離れ、そのままパリに居着いた。

 当時十八歳。以後、ナチスドイツのフランス侵攻で帰国を余儀なくされる四〇年六月まで十年余り、岡本の青春はパリとともにあった。

 岡本が着いたころの欧州は、兵器の破壊力が飛躍的に増大した第一次世界大戦の惨禍を経て、なおも次の大戦の影が忍び寄る時期。近代文明や国家の抑圧的側面や矛盾があらわになる中、それに対抗する文学や美術などの新思潮が沸々とたぎっていた。パリはその中心地だった。

 そこには岡本と同じく美術を志す日本人が数知れずいたが、岡本は孤独感にさいなまれる。「パリの街角や金髪の女性を描くばかり」の彼らに、何の共感も持てなかった。苦悩の中で岡本は、まずフランスの文化教養を徹底して身につけることを自らに課した。若い頭脳でフランス語もめきめき上達した。

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 現地の空気に溶け込んだ岡本はやがて、非具象芸術の先鋭的団体アプストラクシオン・クレアシオン協会に迎えられる。表現派のカンディンスキー、ダダイズムの創始者アルプ、彫刻家ブランクーシら、美術史に名を刻む面々の間で、最年少のメンバーとして活躍した。

 彼らが率いた芸術運動は、このころ台頭したナチスに「退廃芸術」のレッテルを張られる。岡本は、ファシズムの前に芸術が真価を問われる最前線にいたのだった。

 岡本はこの後、シュールレアリスムにも傾き、「傷ましき腕」(三六年)などの傑作を残している。ただし、これらの滞仏作品は日本へ持ち帰ったのち戦災で焼け、再制作を強いられた。よくよく戦争とは仲が悪い。

 岡本のパリでの活動は絵画にとどまらなかった。パリ大学の聴講生となって哲学を学び、民族学の泰斗マルセル・モースにも師事する。思想家ジョルジュ・バタイユの秘密結社にも参加したりと、知識人と幅広く交友した。

 戦後の七二年、モースに関するドキュメンタリーの取材で、岡本は「画家なのになぜ民族学を?」と問われている。岡本は「画家とか民族学者とかの分類自体が無意味だ。全部、全部、全部…」と答え、取材者を当惑させる。「私の職業は人間」。それが岡本の持論だった。

 若き岡本はパリで、立場や職種に分節化されない「全(まった)き人間」として生きる感覚を磨いた。アトリエからしばしば飛び出し、メディアの海を泳ぎながら反戦・平和運動にも連帯した生きざまの骨格が、この青春の日々に培われていた。

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 パリで岡本が親交を結んだ中には、希代の戦争報道写真家ロバート・キャパもいる。岡本がカフェで酔って演説をぶった時、四、五人が立ち上がって拍手を送った。その中にキャパがいて、酒を酌み交わす仲になった。

 キャパには当時、最愛の恋人ゲルダがいつも付き添っていた。ゲルダは三七年、スペイン市民戦争の取材中に戦車にひかれて死ぬ。戦争の悲惨さを写真で告発し続けたキャパの人生を決定づけた女性である。

 彼女はニックネームをタローといった。死亡を伝えた新聞の見出しも「マドモアゼル・タロー」。米国のリチャード・ウィーランが書いたキャパの伝記によると、その名は岡本から借りたものだった。

(2005年2月3日朝刊掲載)

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