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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅲ <2> 広島立志舎 民権運動 演説会に聴衆続々

 平和大通り沿いの広島市中区小町に、1階が貸店舗で寺らしくない外観の妙慶院がある。今より広かった寺の境内に明治12(1879)年8月、広島立志舎が創立された。

 旧広島藩士の日置貫(ひおきかさね)らが発起人の自由民権運動の結社である。土佐出身の山田十畝(じっぽ)を政談演説会の弁士として招き、妙慶院の本堂で初の演説会を10月12日に開いた。

 広島の民権運動はこれまで「低調」の一言で片付けられてきたが、認識を改める必要がありそうだ。というのも、妙慶院本堂に聴衆が続々と詰め掛けて立すいの余地もなくなり、堅固な縁側が落ちてけが人が出るほどだった。やむを得ず、見張りの警官と相談して延会とした。

 届けを出し替えて14日、天満川左岸の広瀬村にあった青物市場の芝居小屋であらためて開いた。「三千人近き人を容(い)れ、木戸口で入れぬと聞いて帰る人も数知れず」と後に十畝が広島新聞に書いた記事にある。

 長髪を肩まで垂らした十畝の熱弁の演題は「官吏は商心を去らずんば国家を経営すべからず」。今風に意訳すると「官僚は利益誘導の政治をやめろ」といったところか。米国独立戦争指導者の名言「我(われ)に自由を、しからずんば死を」で演説を締めて聴衆を沸かせたと想像できる。

 十畝は翌13(80)年1月から広島の別の寺で民権講釈も始めた。3月には米価高騰で潤う農村部を遊説する。四日市(東広島市西条)では千人を超す聴衆が広い家や庭も埋め、同市黒瀬町や呉市安浦町でも数百人を集めた。国会開設運動が士族から豪農へ広がってきた頃である。

 官憲も黙ってはいない。十畝の演説原稿を印刷して売った広島立志舎に、新聞紙条例を適用すべしと難癖をつけた。広島警察署は十畝や日置たちを取り調べ、演説会や講談会まで差し止める。裁判に発展し、顚末(てんまつ)を十畝は広島新聞に連載した。

 その掲載紙の多くは国立国会図書館にあり、広島立志舎の民権運動は歴史の波間に埋もれていた。広島修道大「明治期の法と裁判」研究会所属の増田修弁護士(86)が発掘し、2005年の論文「広島立志舎の創立とその活動」で明らかにした。

 妙慶院は原爆で全壊し、資料は何も残っていない。(山城滋)

山田十畝
 1851~97年。元土佐藩士で明治12年から広島に定住し、後に戸田姓。同15年に芸陽自由党を結成。▽日置貫 1826~88年。元広島藩士で発機隊取締から神機隊。廃藩置県後は司法官など歴任。

(2022年5月18日朝刊掲載)

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