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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅲ <3> 広島新聞 警察との対立を連載 廃刊に

 広島立志舎に弁士として招かれた土佐人の山田十畝(じっぽ)は明治13(1880)年1月から広島新聞の編集に携わる。当時28歳。3月には主幹の肩書が付いた。

 広島新聞は各地での演説会を詳報し、民権運動の機関紙になる。十畝は論説で「急ごしらえでなく人民の完全な参政権が得られる国会開設」を求めた。参議の山県有朋が府県会から徳識者を選ぶ議会を提案したような骨抜き案への反論だった。

 この年初めから、国会開設を求める建言書の提出が各地から相次ぐ。政府は途中から受け取りを拒んだ。4月初めには集会条例を制定し、監視警官に集会解散権を与える。

 世情騒然の中、広島新聞で1月27日から始まった十畝の連載が人気を呼んでいた。自らの演説原稿の印刷物を巡る警察との対立が裁判に発展する一部始終をルポ風に描く「演説会誌の葛藤」である。

 前年10月末、広島警察署に召喚された十畝たちは、演説内容の問題ではなく新聞紙条例違反という体裁を巡る容疑で少し安心したという。前例に基づき、出版条例にのっとった手続きをしていたからだ。

 警察の取り調べに、大阪でも同様にやってきたと説明すると、松浦武夫警部は「官に逆らうか。処分するぞ」と怒声を発した。後難を絶つため十畝たちは軽い罪ならばと「卑屈の決議」をして答弁書を認めた。

 松浦警部はかさにかかり「演説会、講談会も差し止める」と申し渡す。法的根拠のない無理筋で、十畝たちは新聞紙条例違反の容疑自体を裁判で争うことにした。広島裁判所では無罪、警察が上告した大審院も4月14日に一審判断を支持した。

 ところが判決確定10日前の4月4日の11回目を最後に連載は中断を余儀なくされた。その直前、広島県有志総代の長井勝が元老院に提出した国会開設請願建言を許可なく掲載して広島新聞は発行停止に。停止解除後の社説で処分に抗議したこともあり、警察が強制捜査で同紙を再起不能にさせた疑いがある。

 「警察は、面目を失墜させる無罪判決が連載で面白おかしく紹介されることを到底許すことができず、廃刊に追い込んだのではないか」。史実を発掘した増田修弁護士(86)の推理である。(山城滋)

 広島新聞 明治10年2月に真報社が発刊して12号で廃刊。同年11月から興風社が同名の新聞をほぼ1日置きに発行。4ページの活字印刷紙面に官令、社説、雑報、投書などを載せた。13年4月4日付を最後に廃刊。

(2022年5月19日朝刊掲載)

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