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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅲ <4> 明治14年の政変 タブー恐れず 風刺の矢放つ

 民権派の広島新聞が廃刊に追い込まれたように、新聞雑誌は官憲に生殺与奪の権を握られていた。権力チェック機関として息を吹き返したのが明治14(1881)年の北海道官有物払い下げ事件である。

 開拓使長官の黒田清隆が同郷薩摩出身の政商五代友厚に破格の安値で官有物を払い下げようとしていると東京横浜毎日新聞が7月末に暴露。各紙が藩閥政府の露骨な利益誘導を攻撃するキャンペーンを連日のように繰り広げ、御用新聞と目されていた東京日日新聞まで追随した。

 滑稽(こっけい)風刺雑誌「団団珍聞(まるまるちんぶん)」も8月20日号に風刺画を載せた。五代が引く車「むりそく号」にタコ姿の黒田長官がふんぞり返る。一世を風靡(ふうび)した雑誌の創刊者は広島出身の洋学者野村文夫である。

 記者たちは全国各地で演説会を開いて政府攻撃を繰り広げた。沸騰した世論は国会開設要求に結び付く。右大臣の岩倉具視が「口弁紙筆を利器に百方無知の人民を扇動し、反政府の勢い止めがたし」と記し、フランス革命の前夜を連想するほどに政権は追い詰められた。

 政府内では、大隈重信が3月に左大臣有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王に内密で出した立憲政体の意見書が大問題になっていた。英国に範を取る政体を明治15(82)年の選挙、16(83)年の国会開設で実現する案である。

 意見書が採る議院内閣制は、慶応義塾の福沢諭吉の政体論に近い。大隈は福沢と親交を深め、彼の門下生を次々と政府に迎え、新政体実現に備えていた。意見書草案も同門下で会計検査官の矢野文雄が起草した。

 民権論に近い内容や性急な日程への批判に加え、官有物払い下げ事件に絡んだ大隈の陰謀説が広まる。この年10月12日、筆頭参議である大隈の辞職と官有物払い下げ中止が公表され、明治23(90)年に国会を開設するとの勅諭が公布された。明治14年の政変である。

 幕末に密留学していた英国の立憲君主制を野村は著書「西洋聞見録」にこう記す。王政といえど実権は議会にあり、上下貴賤(きせん)の別に厳しくない「寛政」を国民は「フリードム」と呼ぶ―。タブーを恐れずに風刺の矢を放つ団団珍聞創刊のバックボーンでもあった。(山城滋)

野村文夫
 1836~91年。広島藩の藩医(眼科)家の生まれ。英国留学後に藩の洋学教授、後に政府出仕。内務省を辞め明治10年に団団珍聞を発刊。発行停止時の身代わり雑誌「驥尾(きび)団子」も出した。

(2022年5月20日朝刊掲載)

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