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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 永井英子さん―「わが子は」親たちの声

永井英子(ながいひでこ)さん(91)=広島市安佐南区

熱くなった地面。跳ねるように疎開先へ

 永井英子さん(91)は、15歳(さい)の時に爆心地から約1・6キロで被爆しました。原爆投下後の広島市内で見た、わが子を捜(さが)す親たちの姿(すがた)が忘(わす)れられません。戦後は、復興を支えた広島東洋カープの応援(おうえん)を楽しみながら、静かに暮(く)らしています。

 被爆当時は女学校3年生。学徒動員で千田町(現広島市中区)の広島貯金支局(貯金局)に通っていました。自宅(じたく)は宇品(うじな)(現南区)にあり、父と叔母(おば)の3人暮らし。母は弟と妹を連れ、吉田(よしだ)(現安芸高田市)の知人宅(たく)に疎開(そかい)していました。

 8月6日の朝、貯金局の3階の窓(まど)から、道路向かいの広島文理科大(現広島大)の時計台を見ていました。針(はり)が8時15分くらいを指したときです。閃光(せんこう)に襲(おそ)われ、頭と背中(せなか)にガラス片(へん)を浴びました。

 しばらくして周囲を見渡(みわた)すと、通り沿(ぞ)いの建物は崩(くず)れ落ちていました。市の中心部からは、皮膚(ひふ)が焼けてぶらさがった人々が逃(に)げてきました。ほとんど裸(はだか)のような姿でした。

 自宅に戻ろうと渡(わた)った橋には、壊(こわ)れた欄干(らんかん)を枕(まくら)のようにして横たわっている人が大勢いて、「水をください」という消え入りそうな声が聞こえました。しかし永井さんは何もできず、その場を通り過ぎました。

 たどり着いた自宅は、屋根が爆風で吹(ふ)き飛ばされていました。家にいた叔母と勤務(きんむ)先にいた父は無事でした。その時初めて鏡を見て、自分の顔が血で染まっているのを知り、驚きました。

 母親に会いたい思いが募(つの)り、夕方になって、約50キロ離(はな)れた母たちの疎開先へ歩き始めました。

 自宅から疎開先まで行くには、市中心部を通らなくてはなりません。火で熱くなった地面を跳(は)ねるように歩き、進みました。

 爆心地に近づくと、学徒動員で建物疎開作業に出掛(でか)けたわが子を捜す親の姿が、たくさんありました。名前を呼(よ)び、重なった遺体(いたい)をかき分けていました。

 母親らしき人が裸同然の亡(な)きがらに向かって、「ここにおった!熱かったでしょう。一緒に帰りましょう」と言って、新しいシャツとズボンを着せて抱(だ)きかかえているのも見ました。

 爆心地に近い旧住友銀行広島支店横の空き地では、兵隊が「男、女、性別不明」と言いながらトラックに遺体を積んでいました。その先の相生橋の橋桁には、川を流れてきた死体がたくさん引っかかっていました。「怖(こわ)いという感情はなかった。現実とは思えんかった」

 その後、広島市内を抜(ぬ)け、何時間も北に向かって歩き続けました。辺りは真っ暗。明かりのない山道は小川のせせらぎを頼(たよ)りに進みました。

 真夜中に、残り約10キロ地点の八千代(現安芸高田市)までたどり着きました。地元の人が家に泊(と)めてくれました。翌朝(よくあさ)、通りがかりのトラックに乗せてもらい、無事母たちと再会することができました。

 戦後は広島市内で洋裁(ようさい)学校の講師や企業(きぎょう)の事務職として働きました。同僚(どうりょう)女性と一緒(いっしょ)にカープの応援にも熱中しました。「私らは、元祖カープ女子だったんよ」

 1975年の初優勝(ゆうしょう)は、歓楽街(かんらくがい)に集まった人々とハイタッチで喜び合いました。「ヒロシマの復興」を感じた瞬間(しゅんかん)でした。

 今は茶の間でカープの試合観戦を楽しんでいます。ただ、テレビ画面にロシア軍によるウクライナ侵攻(しんこう)の映像が流れるたび被爆の記憶(きおく)がよみがえります。「結局、ひどい目に遭うのはいつも一般(いっぱん)市民。戦争をなくさないと」。平和への思いを一層(いっそう)強めています。(湯浅梨奈)

私たち10代の感想

感情失う体験 怖さ実感

 「怖いというよりも、夢を見ているよう」と被爆当時の惨状(さんじょう)を語った言葉が意外でした。恐怖の感情さえも失わせるほどの体験に、原爆の真の怖さを感じました。当時15歳の永井さんが、50キロも離れた疎開先の家族に会うため、一心に歩いたことを聞き、生命力の強さも感じました。与(あた)えられた健やかな毎日を、誠実(せいじつ)に生きていこうと思います。(高3 佐田(さだ)よつ葉)

助け合えること すごい

 永井さんが、被爆後に家族の疎開先に向かう道中、知らない人が休ませてくれたことを聞き、こんとんとした状況(じょうきょう)下で人助けをする人がいたことをすごいと思いました。原爆投下後の光景を「現実味がない」と話していたのも印象的でした。戦争経験のない私(わたし)たちが、被爆体験を次世代に伝える責任(せきにん)をあらためて実感しました。(高3 中尾柚葉(なかおゆずは))

 15歳という、私たちとほとんど変わらない時期に被爆した永井さん。被爆後、母と妹弟が疎開していた場所へ向かう経路を、地図にマークしながらわかりやすく話してくださいました。特に印象的だったのは、大勢の母親たちが黒焦げになった死体をかき分けて、自分の子どもを捜しているのを目にしたという話です。もしも私がその場にいたら、足がすくみ、前に進む気力を失ってしまうと思います。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が続く今だからこそ、永井さんの話をかみしめ、世界中に核の悲惨さを訴えていくべきだと感じました。(高3 岡島由奈)

(2022年5月23日朝刊掲載)

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