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遺品 無言の証人

[無言の証人] 人影の石 

一瞬で絶えた「誰か」

 原爆資料館でガラスに囲まれ、鎮座する石段。真ん中には黒ずんだ影のようなものが見える。爆心地から約260メートル。旧住友銀行広島支店(現三井住友銀行広島支店)の入り口にあった階段の一部である。

 強烈な熱線によって石の表面が白っぽく変色し、人が腰掛けていた部分が黒くなって残った。後の調査では、影のように見える部分に有機物質が付着していることが判明している。階段に座って銀行の開店を待っていた人が、逃げることもできないまま死亡したとみられ、「死の人影」とも呼ばれる。

 原爆のさく裂後、付近の地表温度は3千~4千度に達した。広島原爆戦災誌によれば、同支店は強烈な熱線と爆風圧によって鉄筋の外壁を残すのみとなり、内部は全面的に破壊された。店内で開店準備をしていた人や通勤途上にあった多くの行員が亡くなったという。

 階段は1971年、同支店が改築する際に切り取られ、資料館に寄贈された。同館では常設展示され、ものも言えぬまま命を奪われた犠牲者の声を、来館者に伝える。

 広島市出身の児童文学作家朽木祥さんの短編「石の記憶」(「八月の光―失われた声に耳をすませて」所収)は、この「石」をモチーフにしている。広島の母娘のささやかな暮らしが、一発の爆弾で一瞬にして断ち切られるさまを描く。

 かようにこの石は、文学や絵画、漫画などさまざまな表現物の題材となり、国内外に被爆の惨状を知らしめる。それは、「そこにいたはずの誰か」について、見る者に深く考えさせるからに違いない。

 資料館にはこれまでに、「影」は「自分の親族のものではないか」という申し出が、複数の遺族から寄せられてきた。しかし影のように焼き付いた人が誰なのか、確定できないまま―。

 それこそが核の非人道性にほかならない。「人影の石」は、原爆がもたらした人間の「不在」を訴え続けている。(森田裕美)

(2022年5月23日朝刊掲載)

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