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社説・コラム

『潮流』 壁画に託して

■論説副主幹 山中和久

 左右の絵は「破壊」を黒や赤、黄などの色と形で表現した。「復活」がテーマの中央の絵は、光輝く太陽が印象的だ。広島で被爆した92歳の洋画家の作品を基にした壁画が、原爆ドームそばに立つ「おりづるタワー」に描かれている。

 山形県鶴岡市の三浦恒祺(つねき)さん。広島ゆかりの芸術家9人が戦後100年の2045年に向けた願いを、それぞれ幅24メートルの壁画にするプロジェクトに選ばれたと聞き、見に行った。

 広島から遠く離れた東北の地で、抽象画の連作「原爆の形象」を手掛ける三浦さんを知ったのは東京勤務だった2年前。同僚が山形の被爆者運動を取材したのがきっかけだ。

 被爆時は旧制広陵中2年。勤労動員でトラックの荷台に乗り、横川から北進中だった。きのこ雲が見え、急ぎ南千田町の自宅へ向かった。あの惨状は目に焼きついて離れない。

 終戦と同時に両親の故郷鶴岡に移り、油絵を始めた。ただ「あの日」は「残酷過ぎて描けない」と悩み、抽象画を選んだ。年を重ねるに連れ平和を願う明るい色の割合が増え、庄内平野や日本海のイメージも加えた。連作は45作に及ぶ。壁画はその中の3作品を組み合わせている。

 実は三浦さん、壁画制作に参加できず、所属する美術団体の仲間や広島市立大の学生が原画を基に代筆して完成させた。

 「ピカソの反戦画『ゲルニカ』のような絵を広島で描きたかった。ただ90歳を超した私に広島はあまりに遠い。新型コロナウイルス禍もあって断念するしかなかった」

 電話口で残念そうに話したが、落ち込んでいるふうでもない。広島の画家や若者にバトンを託した―。そんな思いも感じた。

 自作を「分かりにくい絵だけれど、分身のようなもの」と語る。核なき世界を願う壁画となった分身と対面する日を心待ちにしている。

(2022年5月21日朝刊掲載)

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