×

連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅲ <5> 政変の底流 憲法制定を巡り主導権争い

 光市束荷(つかり)の伊藤公資料館で昨秋、伊藤博文が盟友の井上馨に宛てた書簡が初公開された。自らの主導で筆頭参議の大隈重信を政権から追放した明治14(1881)年の政変時の手紙である。

 同年9月22日付。長州出身参議の山田顕義(あきよし)が京都で療養中の岩倉具視右大臣に会った感触を伝える。「大隈の件で時局収拾にあたることに問題ないようです」とある。在東京参議の意見を伝えて大隈罷免の内諾を得ようとした山田に、老練な岩倉は収拾の方向を明言していない。

 実は、伊藤と井上、大隈の参議3人は国会開設を不可避と考えて連携を申し合わせていた。3人は福沢諭吉に対し明治13(80)年12月、「民心扇動し社会安寧を妨げる」(井上)既存新聞とは一線を画す新聞の創刊を頼んだ。国会開設に備えた世論対策で、後に福沢が暴露する。

 ただ、3人は新政体の中身や日程もまだ詰めていなかった。大隈が14年3月に有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)左大臣へひそかに出した意見書の内容を伊藤が知ったのは6月末のことだった。

 伊藤は憤激のあまり辞意を表明する。大隈の謝罪で矛を収めたが、怒りの原因は大隈の抜け駆けだけではなかった。立憲政体化に慎重だった岩倉から相談を受け太政官大書記官の井上毅(こわし)が既にこの問題に深く介入していたのである。

 井上毅は福沢への敵意を隠さず、大隈意見書の英国型を採れば議会が実権を握ってわが国では必ず政体不安定に陥ると警告。ドイツ型の君主政府を目指すよう働きかけて岩倉の同意を得た。伊藤の知らぬ間に、岩倉の主導でドイツ流憲法を制定する流れが出来上がっていた。

 ところが岩倉が病気で京都へ。北海道官有物払い下げ事件が火を噴き、大隈が福沢と組んで政権の乗っ取りをたくらんでいるとの陰謀説が広まる。伊藤もそれに乗り、8月末から大隈追放を強硬に唱えた。

 10月6日に帰京した岩倉は、内閣破裂を招く大隈罷免を渋々ながら認める。天皇の裁可を経て同月12日、官有物払い下げ中止と明治23(90)年の国会開設と併せて発表された。

 この政変で憲法制定を巡る主導権争いはリセットされた。やがて伊藤の時代が来る。(山城滋)

井上毅
 1844~95年。元熊本藩士。維新後は法制官僚として大久保利通や岩倉、伊藤、山県有朋らに重用された。伊藤と大日本帝国憲法、山県と軍人勅諭、教育勅語を起草した。法制局長官、文部大臣など歴任。

(2022年5月21日朝刊掲載)

年別アーカイブ