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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅲ <6> 訪欧調査 伊藤、立憲政体の運営学ぶ

 伊藤博文は明治15(1882)年3月、欧州へ憲法調査に赴く。参議寺島宗則の発議に乗った形だった。

 ドイツ型憲法との路線は敷かれており、訪欧は「彼自身の色揚げでもあった」と歴史家の服部之総(しそう)は評したが、果たしてそうだったのか。

 確かに条文研究なら国内でもできるが、伊藤には期するところがあった。立憲政体の実際の運営方法を現地で学ぼうとしたのである。オーストリアで出会ったウィーン大のシュタイン教授の国家学が、求める解の多くを与えてくれた。

 君主権と行政権を議会制と調和させることをシュタインは重視していた。主権者である君主の権利も憲法の下で制限されるとの内容も含む。後に天皇機関説といわれる日本型の立憲政治の萌芽(ほうが)とも受け取れよう。

 一方、国会権限を弱めて君権体制を守るドイツの憲法学説は伊藤の目に「すこぶる専制論」と映った。

 この年8月、85歳のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世は会食に招いた伊藤に「日本の天子に国会開設を祝うことはできない」と意外な言葉を発した。やむを得ず国会を開いても「国費徴収の際に国会承認を必要とする規定を設けない方がよい」と。

 君権優位のドイツでも当時、たばこ専売化法案を巡り議会が紛糾していた。対応に追われる宰相ビスマルクは、自身の後ろ盾となる気難しい老帝の信任取り付けにも苦心惨憺(さんたん)していた。その悩ましい姿は政体運営の生きた教材でもあったろう。

 伊藤は後に皇帝の忠告に必ずしも従わない内容の憲法を作る。その際に天皇の理解が不可欠と考え、先生役としてシュタイン招請に動くが辞退される。ならばと侍従をウィーンに派遣してシュタインに9カ月間学ばせ、天皇への間接的な講義を実現させた。執念というほかない。

 伊藤の訪欧期間は1年余りに及んだ。日本国内ではその頃、国会開設の勅諭を受けて数々の憲法草案が作られていた。英国流の議院内閣制を取り入れたものが多かった。

 伊藤は欧州から政府要人宛ての手紙で、西洋書物を参考に憲法を論じる民権家を「青年書生」と呼んだ。立憲政治の組み立てから実際の運営方法までを習得し終えたという自信を胸に帰国する。(山城滋)

ビスマルク
 1815~98年。プロイセン首相、北ドイツ連邦宰相、対仏戦争勝利後の71年からドイツ帝国宰相。鉄血宰相と呼ばれ外交手腕で一大同盟網を築く。若き皇帝ヴィルヘルム2世と衝突して90年に辞任。

(2022年5月24日朝刊掲載)

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