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連載・特集

プロ化50年 広響ものがたり 第2部 高みを目指して <2> 存続の危機 いきなり赤字 活動休止も

出演料わずか 楽団員不足

 広島交響楽団が「中四国初のプロオーケストラ」として意気揚々と再出発して1年が過ぎた、1973年夏―。「広響と呼んでください」「野球はカープ オーケストラは広響」。楽団員は楽器ではなくプラカードを手に、商店街をパレードしていた。

 プロ化1年目はいきなり約400万円の赤字を出した。公演を約40回開き、アマチュア時代からほぼ倍増させたが、経費がかさむばかりで観客動員は伸びなかった。演奏活動を見直すため、73年度は開幕から2カ月間の休止を余儀なくされた。

 誤算の一つは、プロ化を機に演奏活動が忙しくなり、それまで広響を支えてきた教員や会社員の多くが退団したことにあった。公演のたびに奏者が不足し、エキストラ(客演奏者)の出演料がかさんだ。

 「専業団員になりたくても、わずかな出演料では生活できず、仕方なく辞めた人が多かった」。元楽団員でバイオリン奏者の白石和子さん(76)=呉市=は話す。島根大教育学部を卒業後、東京のオーケストラを経て広響に入団。当初は人手不足の事務局の仕事も手伝った。「朝晩、電話にかかりっきりになってエキストラを探した。遠方は旅費がかかるので、近隣の音大生が頼みの綱だった」

 広響の知名度不足もあった。楽団員たちはPRのために街頭をパレードし、チラシを配った。集客が難しい月曜にしか公演が開催できないことも、大きな悩みだった。自前の練習場がなく、NHK広島放送局のスタジオを間借りしていたため、本番前のリハーサルを週末にするしかないという事情があった。

 演奏会の魅力をいかに高め、広響ファンを増やすか―。2カ月間の休止以降は指揮者陣の充実を図り、プログラムは人気曲を増やした。初めて海外から招いたバイオリン奏者イーゴリ・オイストラフとも協演した。

 そもそも広響は、ほかの地方オーケストラに比べて地元自治体からの補助金が少なく、財政基盤が脆弱(ぜいじゃく)だった。「文化都市にふさわしいオーケストラに」と身を削る医師の原田東岷(とうみん)理事長を支えようと、73年から地元の財界人が広響の役員に加わった。

 77年からは、楽団員不足を改善するため定期的なオーディションを開始。79年には37人の全楽団員にようやく月給制度が導入された。「月給といっても当時は8万円程度しかなく、妻に経済的に支えてもらっていた」。国立音楽大卒業後にオーディションで入団したコントラバス奏者、斎藤賢一さん(66)=広島市安佐南区=は振り返る。「広響はプロであり、楽団員は演奏で生活しているということが、行政にも市民にも理解されていなかったと思う」

 プロ化から10年が経過した82年。広響は定期演奏会や巡回公演、学校を訪問しての音楽教室など、初年度の約3倍に当たる116回のステージをこなした。懸案だったリハーサル場も、廃業したボウリング場を使えるようになった。

 だが、財政状況は一向に好転せず、累積赤字は8千万円に上った。「もう楽団を解散したほうがいい」「赤字はどうする。役員が自腹を切るのか」。水面下では話し合いが持たれていたという。

 83年の秋。アマチュア時代からの創設20周年を記念するコンサートが開かれ、日本指揮界の重鎮といわれた渡邉曉雄さん(1919~90年)が広響の指揮台に立った。この出来事をきっかけに、広響再生のドラマは幕を開けることになる。(西村文)

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(2022年5月25日朝刊掲載)

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