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近代発 見果てぬ民主Ⅲ <7> 民権運動の失速 自由党と改進党が泥仕合

 9年後に国会開設との勅諭を受けて明治14(1881)年10月、板垣退助が総理の自由党が結成された。板垣は翌15(82)年4月、岐阜で暴漢に襲われ「板垣死すとも自由は死せず」の名言を発す。その直後には大隈重信が総理の立憲改進党ができ、都市の知識人層を取り込んだ。

 自由民権運動はしかし、宿願だった国会開設の確約を引き出してからは目標を見失う。政府の度重なる干渉も受けた。明治15年6月の集会条例改定では演説会への弾圧が強まり、結社の地方組織も禁止となる。

 同じ土佐出身の後藤象二郎を介して板垣にも洋行勧誘の魔の手が伸びた。費用が政府ルート資金との疑惑を改進党系の新聞が書きたて、自由党内に亀裂が走る。自由党は改進党を「偽党」と非難して両党が泥仕合を演じるなど運動は迷走した。

 東京では、改進党に加わる広島県人が相次いだ。団団珍聞(まるまるちんぶん)創設者の野村文夫は発起人に名を連ねた。元老院書記官時代に県内から国会開設建言書を出すよう働きかけた藤田高之は官職を辞して加入し、陸軍大尉だった小鷹狩元凱(こたかりもとよし)も続いた。

 彼らは同年7月、広島で芸備立憲改進党を組織する。県内各地で演説会を開いて県議たちの支持も広げたが、党勢は長続きしなかった。広島立志舎にいた山田十畝(じっぽ)らが作った芸陽自由党は伸び悩んだ。

 明治14年政変で大蔵卿(きょう)に就いた松方正義のデフレ政策でコメや生糸の価格は急落し、民権運動を支えた農村の富は消えうせた。負債を抱えて困窮する農民も急増する。

 追い詰められて運動は激化した。明治17(84)年に栃木、茨城、福島県の自由党急進派による加波山事件、貧民救済を訴えて埼玉県の農民が蜂起した秩父事件などが東日本で相次ぐ。激化事件は官憲や軍隊に抑え込まれ、民権運動の失速を決定づけた。自由党は同年10月に解党。12月には改進党から大隈が脱党した。

 中国地方では維新後に諸隊脱退兵の反乱(明治3年、山口県)、新政反対一揆の武一騒動(4年、広島県)、徴兵令反対が契機の血税一揆(6年、岡山、鳥取県)があり、民衆側がことごとく鎮圧された。その後、怒りのマグマは行き場を失ったかのようだった。(山城滋)

 集会条例改定の影響 官憲による干渉が強まり、明治15年には全国の政談演説会1817回のうち全会解散282回、演説禁止53回に及んだ。演説に不敬、官吏侮辱罪などを適用する禁獄や罰金刑も増えた。

(2022年5月25日朝刊掲載)

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