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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 客員特別編集委員 佐田尾信作 ある「少国民」笠木透

不穏な世界 その歌は響くか

 ことしは1972年の連合赤軍あさま山荘事件から50年。吉田拓郎が「結婚しようよ」を大ヒットさせたのも72年だった。革命の名の下に一線を越えた若者たち。2人で買った緑のシャツをベランダに干そう-と唱和した若者たち。筆者は高校に進んだ年だったが、どちらが時代の空気を反映していたのだろうか。

 笠木透という岐阜県生まれの詩人・歌い手が「フィールドフォーク」を提唱して実行に移したのも同じ頃だった。笠木は69年から3年開催して数万人を動員した野外音楽祭「中津川フォークジャンボリー」の仕掛け人。しかし、その後は地方で小さなライブを重ね、終われば木工や陶芸を楽しみ、川下りに興じた。地元の長良川河口堰(ぜき)反対運動や山口県の上関原発反対運動を支援し、仲間や住民たちと現場で歌い踊った。〈だまされ続けてきたのだけど/原子の炎にはもうだまされないだろう〉とは「祝島賛歌」の一節である。

 笠木は800曲ともいわれる歌を残し8年前に77歳で世を去る。彼と50年前に京都で初共演し、終生の同志となったのが72歳の上田達生だ。光市東伊保木に「椿窯」を構え、お呼びが掛かれば今もギター片手に旅に出る。かつては平和への願いを込めて「凪(なぎ)の座」というバンドを組んでいた。筆者は周防灘が眼下に迫る山腹の窯を18年ぶりに訪ねた。

 上田は開口一番、笠木と上田の間柄を「山と海のチームだったね」と懐かしむ。笠木のソングブックによると、初めて共演した時、笠木は上田たちの歌のうまさに脱帽し、ひと暴れして帰るしかないと得意の替え歌で会場を練り歩いたという。凪の座の歌を「海に生きる人たちのリズム」と気に入り、後に上関町の祝島で潜りを教わり、土地のわい雑な歌を教わる。笠木は旅の途上で自らの歌の無力さに気付き、常に鍛え直してきた人だったと想像できる。

 上田は「かそけき者の声を聞く人でした」と笠木を評する。抑圧されてきた者たちの、声なき声。笠木の著書「私に人生と言えるものがあるなら」(萌文社)を読むと、欧州に倣った明治政府は西洋音楽を偏重し民謡など土着の歌をないがしろにしてきた-と憤る。鹿児島・奄美の黒だんど節やアイヌ民族のペウタンケ(危急を告げる歌)などに出会い、それにまつわる歌を書き上げた。フォークソングを歌いに出掛けて逆にフォークソングの在り方を教わった-とつづってもいたのである。

 一方で笠木は替え歌の収集家でもあった。「負ける闘いだろうけど楽しくやろう、というのが透さんでした」と上田は振り返る。37年生まれの笠木は国民学校2年で敗戦。軍歌を聞かされ、「大将になる」と男子は答えた「少国民」の一人である。だが少国民には軍歌を替え歌にしてちゃかす遊び心やパワーもあった。

 替え歌を収めた笠木のCDブックスに「昨日生れたブタの子が」(あけび書房)がある。「露営の歌」は〈負けて来るぞと勇ましく〉と歌い「月月火水木金金」の歌い出し〈朝だ夜明けだ潮の息吹き〉は〈夜の夜中のまっ暗闇で〉に。戦意高揚の歌詞のはずが情けない歌詞や下卑た歌詞にすり替わる。笠木は「笑いころげながら、戦争が見えてくるかも知れません」と書き留めていた。

 今の若者にもファンがいる。竹原市沖の干潟の保護活動に取り組み、三原市小泉町で棚田を復元する35歳の岡田和樹。「私の子どもたちへ」という曲に幼い頃から親しみ、最近も地元に上田を招いて笠木の世界を歌ってもらう。「現代は全てが『経済の土俵』で語られるが、自分たちの土俵を探したいのです」。その道標は笠木の歌にあると信じる。

 岡田は「軟弱もの」という曲を教えてくれた。〈核兵器がなくては滅びて行くとしたら/滅びて行こうではないか〉と歌う。ロシアのウクライナ侵攻を境に、核武装しなければ国を守れぬという幻想が立ち現れてはいないか。笠木のメッセージが受容される日本であることを願う。

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 鵜野祐介著「子どもの替え歌と戦争」(子どもの文化研究所、2020年)が笠木の替え歌研究資料を読み解いている。闘病中の笠木による書き下ろし原稿も収録。(文中敬称略)

(2022年5月26日朝刊掲載)

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