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連載・特集

プロ化50年 広響ものがたり 第2部 高みを目指して <3> 巨匠来たる 音楽監督に驚きの着任

献身タクトで運営好転

 「ずいぶん辛辣(しんらつ)に言ったんだ。そうしたら、音楽監督になってくれないかと依頼があったよ」

 1984年、指揮者の渡邉曉雄さんが広島交響楽団の音楽監督に就任することが決まり、広島はもとより全国の音楽ファンを驚かせた。日本指揮界の重鎮と呼ばれた渡邉さんが、なぜ存続すら危うい一地方オーケストラへ着任したのか。渡邉さんの長男でピアニスト・指揮者の康雄さん(73)=東京都=は、父が語ったいきさつを記憶していた。

 前年、渡邉さんは客演指揮者として広響を指揮し、楽団の窮状を知る。「広島ほどの都市で、どうして交響楽団が盛んにならないのか」。温厚な人柄の渡邉さんが厳しい口調で、広響の理事たちに迫った。

 「父は、これからは地方の時代と言っていた。日本のクラシック界の底上げには、地方の音楽文化の発展が重要だと考えていたのだろう」と康雄さん。

 その頃に広響の会長を務めていたのは、広島相互銀行(現もみじ銀行)会長の森本亨さん(87年に91歳で死去)。かつて被爆からの復興と発展に貢献し、広島市公会堂や旧市民球場の建設費を拠出した財界有志「二葉会」の一員だった。

 「音楽に疎かった父は『ベートーベンのレコードを買うてこい』と。家でずっと聴いていた」。もみじ銀行元頭取の森本弘道さん(86)は思い出す。亨さんは原爆で19人の部下を亡くした。「父は『生かされている者のお返しが奉仕だ』が口癖だった。人の知恵を借りながら、広響の再建に努めたのだと思う」

 84年3月、広響は就任を依頼し、快諾を得たと発表。「米国のクリーブランド管弦楽団のように、地方都市にあってもレベルの高い楽団に育てるのが夢」。渡邉さんは県庁で大勢の記者に語った。

 初年度の就任記念公演では、渡邉さんの盟友で名バイオリニストの江藤俊哉が出演。呉、福山、松江の各地方公演でもタクトを披露した。翌85年度は定期演奏会を3回振り、広島相互銀行の冠コンサートにも登壇。「観客があふれ、渡邉さんの指示で追加の椅子を並べた。後で消防署に𠮟られた」と森本さんは明かす。

 渡邉さんは広島市西区のマンションを借り、マツダ車のコスモを運転。「スポーティーでかっこいいと、大のお気に入りだった」と広響事務局の山本章彦管理部長(63)は懐かしむ。入局4年目で、広島滞在時のマネジャー役を務めた。渡邉さん夫妻は広響の創立指揮者である井上一清さんや理事をマンションに招き、親交を深めた。「人を大事にされる方だった。広響の歴史も尊重されていた」

 「広響を良くしようという熱意がタクトから伝わってきた」と話すのは、元楽団員でクラリネット奏者の岡本美知子さん(73)=佐伯区。武蔵野音楽大を卒業後、72年に入団。「東京の楽団の人たちもエキストラ(客演奏者)に駆け付けた。経験豊かな奏者が入ることで、広響の演奏も上達していった」

 観客動員の向上や冠コンサートの増加で、楽団運営は好転。県と市の補助金も増え、約8千万円あった累積赤字は半減した。

 86年4月、渡邉さんは「次代を担う人材」と見込んだ高関健さんに音楽監督を譲り、自らは名誉音楽監督に就任。6月、広島を訪れた渡邉さんは定演のリハーサル後、心臓発作を起こして入院する。退院後、体調不安を抱えつつ指揮活動を続け、90年に死去。その7カ月前、広響と最後のステージに立った。

 巨匠の献身的なタクトで再生した広響はその後、予想もしなかった夢の舞台に上がることとなる。(西村文)

わたなべ・あけお
 1919年東京生まれ。父は日本人の牧師、母はフィンランド人の声楽家。42年東京音楽学校(現東京芸術大)研究科修了。50年、米ジュリアード音楽院で指揮を学ぶ。日本フィルハーモニー交響楽団の創立に尽力し、56年初代音楽監督に就任。62年東京芸術大主任教授。78年日本芸術院会員。90年6月に死去。

クリーブランド管弦楽団
 世界最高の合奏力とたたえられる、米5大オーケストラの一つ。本拠地のクリーブランド市は、オハイオ州北東部の人口約40万の工業都市。1918年の創立当初は平凡な地方オーケストラだった。戦後、名指揮者のジョージ・セルが音楽監督に就任し、急成長を遂げた。

(2022年5月26日朝刊掲載)

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