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連載・特集

被爆60周年 明日の神話 岡本太郎のヒロシマ 第3部 民族学の視点 <3> フィールドワーク

伝統 今に生きてこそ

田を駆け情熱の写真

 岡本太郎は一九五〇年代後半から六〇年代にかけ、日本各地の伝承や風俗を精力的に取材して回っている。

 フランスで修めた民族学をひっさげ、祖国に息づく伝統を自らの問題としてつかみとるためのフィールドワーク。その成果は雑誌「芸術新潮」や「中央公論」に連載され、「日本再発見―芸術風土記」(五八年)「神秘日本」(六四年)などの著作に結実した。

 六三年六月には広島県にも取材に訪れている。「神秘日本」に収録された「花田植―農事のエロティスム」は、その記録。北広島町の東部、当時の千代田町に伝わる「壬生の花田植」などを考察の対象にした。

 当時、岡本の案内役を務めたのは、私財を投じて自宅に「芸北民俗博物館」を開いていた新藤久人さん(八七年に七十五歳で死去)。教職の傍ら、花田植えなど民俗芸能の研究や民具の収集に打ち込み、七五年には中国文化賞を受賞している。一泊二日の岡本の取材につきっきりで応えた。

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 長男の建吉さん(64)=広島市佐伯区=は、父親に頼まれて岡本の写真取材を手伝った。「岡本さんは泥だらけになるのも構わず、ものすごい勢いで田んぼの中を駆け回った。予備のカメラを持ってついていくのが大変でした」。建吉さんは多摩美術大を卒業したばかりで、岡本はあこがれの存在だったという。

 この取材で岡本は、田の中にずらりと並んだ早乙女の尻を「この全体が『女』そのものなのだ」と表現し、背後で太鼓を打ち鳴らす男たちにあおられるさまを「生殖行為を象徴した呪術(じゅじゅつ)」だと論じた。文の冒頭で農耕文化より狩猟文化への共感を表明しつつも、花田植えにおおらかな性の解放を感じ、その生命力をたたえている。

 岡本はこの時、県北部の比和町(現庄原市)にも足を延ばし、田植え歌を収集している。応対した郷土史家の倉岡侃さん(83)によると、ここでも専ら色っぽい歌について聞きたがったという。

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 当時、比和町助役だった白根章三さん(85)の妻文子さん(84)は、岡本に色紙絵を描いてもらった。岡本らしい筆致の躍る二枚を、今も大切に保管している。

 民俗学者でもある写真家の内藤正敏さん(66)=東京都杉並区=は、岡本のフィールドワークの記録に関心を寄せてきた。昨年、川崎市岡本太郎美術館であった「こんな日本! 岡本太郎が撮る×内藤正敏が撮る」展では、岡本の残したネガを独自のトリミングや焼き込みで再作品化して並べ、注目を浴びた。

 内藤さんは、岡本の写真を「学術的な構図を押さえていて、民族学の素養を感じさせる」と評価する。だが一方で、そこからはみ出していく部分もあることが、その魅力の本質とも言う。

 「最初は冷静に撮っていても、やがて、はしゃぐ子どものような視線が入ってくる。伝統的なものを撮りつつ、圧倒的なライブ感がある」

 それは、岡本の伝統観そのものにかかわる指摘でもある。一連の日本文化論で繰り返し語られるのは、「今、生きている自分との生々しいかかわりなしに、伝統は存在しない。意味がない」という強い主張だ。

 岡本はこの伝統観を、ヒロシマの記憶をどう引き継ぐかという問題にも適用する。同じ六三年、広島市の平和記念公園を訪れた印象をつづったエッセーで、それを展開する。

(2005年4月9日朝刊掲載)

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