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連載・特集

被爆60周年 明日の神話 岡本太郎のヒロシマ 第3部 民族学の視点 <4> エッセー「瞬間」

被爆地の「今」を批判

観光地・風物詩化嘆く

 「瞬間」と題した岡本太郎のエッセーがある。一九六三年刊行の「私の現代芸術」(新潮社)に所収。この年の七月、広島市中区の平和記念公園一帯を訪れた印象を基に、やや挑発的にヒロシマを論じた文だ。

 冒頭、原爆に打たれながらも原子雲を「何ともいえん綺麗でした」と表現した被爆者の手記を引き、「あの瞬間はわれわれの中に爆発しつづけている」「原爆が美しく、残酷なら、それに対応し、のりこえて新たに切りひらく運命、そのエネルギーはそれだけ猛烈で、新鮮でなければならない」と熱弁する。返す刀で、自らの目に映った広島の情景は「あまりにも散文的」だった、と残念がる。

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 岡本が問いかけるのは、被爆地が観光地化、八月六日が風物詩化していないか、という批判だ。観光バスと記念写真の光景、「平和」と印字された土産物、八・六が近づくたび原爆病院に集う記者などを、やり玉に挙げる。短絡的な見方ではあるが、原爆が「過去の思い出」にとどまっている、と手厳しい。

 批判は原爆慰霊碑の碑文にも及ぶ。「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」―。「主語がない」「米国を免罪している」といった論争に耐え抜き、今では「人類の誓い」として定着した碑文である。

 岡本の批判は、前半はこの「主語がない」論と同工異曲で的外れなのだが、後半の視点が岡本らしい。

 「もう一つ別な角度から、私はこのモラルを批判したい。『過ち』は過去のことだ。『繰返しませぬ』というのは未来である。だがここに象徴的に、現在が欠けている。とかく、過去の非をあやまり、未来を約す。ただ今こうであると誇り、生身で責任をとる、そういう強いモラルはうち出さない…」(一部略)

 岡本は、この時期に精力的に行った日本各地のフィールドワークの過程で、「伝統は自己×過去」だ、と力説している。伝統は己にかかっている、己によって生かし、新しい価値を現在につくり上げるのでなければ、伝統はないに等しい、と。「岡本民族学」の中心思想である。

 「瞬間」の主張は、その伝統観をヒロシマの記憶にも当てはめたものといえるだろう。未曾有の原爆体験も、今を生きる人々が自分の責任として新しい世界の建設につなげなければ、「ないに等しい」と断じるのだ。

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 これが書かれた六三年は、岡本もデモに参加した六〇年安保闘争の余熱が去り、日本が「経済の季節」へ向かった時代。原水禁運動が分裂した年でもあり、岡本は文中でその混乱を嘆いてもいる。碑文自体への批判というより、それを借りて、時代へのいらだちをぶつけたように思える。

 岡本は続けてこう記す。

 「この原爆の事実から、われわれの運命の大きな部分が出発している。つまりわれわれ自身が被爆者なのだ。(中略)キノコ雲も見なかったし、火傷もしなかった、そして現在、生活をたくましくうち出し、新しい日本の現実を作りあげる情熱と力をもった日本人、その生きる意志の中にこそ、あの瞬間が爆発しつづけなければならないのだ」

 四十年以上前の文章だが、被爆六十年の現在に向かって書かれたようにも響いてくる。ちょうど「明日の神話」が今、メキシコでの眠りからよみがえろうとしているように。

(2005年4月12日朝刊掲載)

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