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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅲ <9> 国家の基軸 天皇を核に国民統合目指す

 欧州から帰った伊藤博文は明治17(1884)年3月、念願の宮内卿(きょう)に就任する。宮中の改革が立憲体制の鍵を握ると考えていたからだ。

 欧米ではキリスト教が国家の基軸として根を下ろしていた。伊藤は後に枢密院で「基軸なくして政治を人民の妄議に任す時は、政は統紀を失う」とし、宗教の力が弱いわが国で「基軸とすべきは独り皇室あるのみ」と断じた。天皇への尊崇で人心を束ねようとしたのである。

 伊藤が目指したのは天皇専制とは違う。明治11(78)年に大久保利通が暗殺された後、宮中の侍補(じほ)が天皇親政運動を起こす。自分たちが補佐・指導する天皇の威を借りて儒教主義の復活を企てようとした。内務卿だった伊藤は強硬に反対し、翌年には侍補を廃止している。

 こうした経緯もあり、天皇はじめ宮中の関係者は新宮内卿に身構えていた。伊藤は近代的な官僚制度を導入する一方で、株券や山林など皇室財産を急増させる。宮中の警戒心を和らげるとともに、チェック機関となる国会開設前の駆け込みだった。

 明治17年7月には新しい華族制度を創設する。公卿、諸侯の旧華族に国家に勲功のある者を加えて「公・侯・伯・子・男」の5等の爵号を与え、男子のみの世襲とした。新華族により貴族院を構成し、皇室の守護者とする狙いだった。

 初期の授爵者は500人余。薩長出身などの勲功華族も含まれ、伊藤たち参議は伯爵となる。欧州の制度に倣った爵号は、四民平等に反するとの批判が根強くあった華族の中にさらなる上下関係を持ち込んだ。

 皇室を立憲体制の中にどう位置づけるか、国民の間でも議論されていた。福沢諭吉は時事新報で「帝室は政治の外に置くべきだ」と説き、民権論者に支持された。伊藤は憲法下で君主権も制限されると考えていたが、強く押し出したのは天皇を核に据えた国民統合の仕組みだった。

 明治22(89)年の憲法は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」で始まる。翌年の教育勅語と相まって天皇の神格化が進み、信教の自由は国家神道の枠内にとどまった。

 この仕組みは人心の帰一を劇的に促した半面、異論を排除する方向に傾きがちでもあった。(山城滋)

勲功華族
 昇爵者も含め明治21年までに90人。出身は公卿4、薩摩30、長州24、土佐10、肥前6など。島津忠義、久光と毛利元徳らが公爵、黒田清隆、松方正義、大山巌、西郷従道、伊藤博文、山県有朋、井上馨らが伯爵。

(2022年5月27日朝刊掲載)

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