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連載・特集

プロ化50年 広響ものがたり 第2部 高みを目指して <5> 第九ひろしま 市民の歌声 年末彩る

巨匠の指導「人生の指針に」

 終戦翌年の大みそか、音楽喫茶ムシカから流れるベートーベンの交響曲第9番に人々は涙し、勇気づけられた―。「第九伝説」をもつ広島の地に1985年、地方都市では最大級のクラシック音楽イベント「第九ひろしま」が誕生した。中国放送などが主催し、今年で38回を数える歴史の始まりには、広島交響楽団の第2代音楽監督を務めた巨匠・渡邉曉雄(あけお)さん(1919~90年)が深く関わっていた。

 日本が好景気に沸いていた85年春。広島市西区の商工センターで、収容人数約6千人のホールを備える「広島サンプラザ」の建設が進んでいた。「こけら落としのイベント、何かアイデアない?」。中国放送のテレビ制作部にいた才木幹夫さん(90)=中区=は、役員の問い掛けにひらめいた。「第九しかない」

 戦後間もなかった高校時代に地元の合唱団に所属。当時はレコードが高価で買えず、通い詰めたムシカでクラシック音楽に浸った。東京のNHK放送合唱団などを経て、27歳のとき中国放送に入社。仕事の傍ら、広島県合唱連盟の一員として広響の第九公演に参加したこともあった。

 第九の合唱団は通常100~200人だが、こけら落としのイベントはもっと大きな千人規模にする考えだった。83年に大阪で始まった「1万人の第九」の評判も刺激になった。とはいえ、「大勢の歌声がぴったりと合うのか、そもそも人が集まるのかと、不安だらけだった」。

 広響は前年、経営再建の切り札として渡邉さんを音楽監督に迎え、全国的にも話題となっていた。才木さんは、渡邉さんが広島の住まいとしていた西区のマンションを訪ね、広響と渡邉さんの出演を打診。「できるだけ多くの市民をステージに上げたい。その熱意を伝えたら、快諾だった」

 参加者の応募を始めると、子どもから高齢者まで、職業もさまざまな約800人が集まった。夏から市内の公民館などに分かれ、練習が始まった。ドイツ語に片仮名を振った楽譜を手に、みな汗だくで歌った。

 「第九は30年前に歌って思い入れがあった」と、福山市から参加した高田資生(よりお)さん(87)=南区。56年、広島で第九が初めて全曲演奏された広島市公会堂のステージにいた。原爆で両親と兄を亡くし、合唱が「心の支えだった」と振り返る。

 本番が近づき、いよいよ渡邉さんの指導が始まった。「ずっと笑顔で、ものすごく熱心だった」と思い出すのは元中学教諭の廣谷明人さん(60)=南区。「いいですね」「素晴らしいですね」と合唱団を褒めた後に、タクトを構えて「じゃあ、もう一度」。「何度も繰り返し歌いました」と猛特訓を懐かしむ。

 「マエストロは私にとって音楽人生の指針」と話すのは、バリトン歌手で合唱指導者の益田遙さん(88)=西区。ソリストの一人としてリハーサルに臨んでいたが、闘病中だったため声が伸びなかった。渡邉さんに相談すると、「ブレス(息継ぎ)してもいいんですよ」と優しい言葉が返ってきた。苦悩が晴れ、歌い切ることができた。

 12月22日の本番。雨にもかかわらず、サンプラザは満席となった。応援の合唱団も加わり、皆で声を合わせた「歓喜の歌」。渡邉さんがステージから振り返ると、客席からも歌声が湧き上がった。

 「広響が実力を向上させていく時代にスタートできたことは意義深かった」と才木さん。その後も毎年継続し、広島の年末を彩る風物詩となった。2017年には、32都道府県から最多となる1832人が参加。新型コロナウイルス禍の20、21年は中止も検討されたが、広響の現音楽総監督・下野竜也さんのタクトで公演をインターネットで配信。歌声を未来につないだ。(木原由維、西村文) =第2部おわり

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(2022年5月28日朝刊掲載)

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