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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅲ <10> 裏面の天皇機関説 憲法草案 枢密院で激論に

 伊藤博文は明治18(1885)年に初代の総理大臣に就任する。各省大臣からなる近代的な内閣制度の導入は、国会開設への備えだった。

 翌19(86)年から憲法草案の起草に入った。天皇が定める欽定(きんてい)憲法、両院制議会などの原則を伊藤が示し、法制官僚の井上毅(こわし)らが草案を練る。伊藤が手を入れて仕上げた。

 明治21(88)年4月末、憲法草案などを審議する枢密院が設けられ、伊藤は枢密院議長に転じた。天皇親臨の下で激論が交わされる。焦点は、天皇権力は万能か否かだった。

 伊藤は否。君主権といえども行政府の内閣と立法府の議会によって制限を受けるのが立憲政体だと確信していた。保守派の枢密顧問官たちを相手に奮闘する。

 草案の「天皇ハ帝国議会ノ承認ヲ経テ立法権ヲ施行ス」の「承認」という言葉に対し、元侍補(じほ)の元田永孚(ながざね)らは「下から上へ認可を求める意味で不穏当」と修正を求めた。伊藤は「議会の承認を得ずして国政施行するのは立憲政体ではない」と反論したが、最後は妥協して「協賛」に改めた。

 国予算についての「帝国議会ノ承認ヲ経(へる)ヘシ」も「承認」を「協賛」に替えた。後の内閣は予算に対する議会の不協賛に苦しみ抜く。行政権についても伊藤は「天皇は責任宰相を置いて君主行政の権をも幾分か制限される」と明言した。

 伊藤は枢密院会議の冒頭で、わが国の基軸は「独り皇室にあるのみ」と語った。この発言はレコードに例えれば表の面である。裏面に当たる審議中発言の核心は、法人の国家が統治権の主体で天皇はその最高機関である「天皇機関説」と言える。

 保守派を極力刺激しないように、表面的には天皇大権を強調して実を取ったのである。伊藤の師シュタインの講義を侍従から間接的に聴いた天皇も承知していたと思われる。

 欧州各国の王室のように容易に変転はできない万世一系の皇統。後に大正天皇となる嘉仁(よしひと)親王が病弱であることも念頭にあっただろう。後世からも誤解されやすい伊藤の二面性にはそれなりの必然性があった。

 内容は国民に知らされないまま、大日本帝国憲法は明治22(89)年2月11日に発布された。(山城滋)

枢密院会議
 明治21年5月8日~22年2月5日に憲法と皇室典範を審議。寺島宗則、大木喬任、佐々木高行、元田永孚、鳥尾小弥太ら枢密顧問官と大臣らで構成。天皇は毎回出席、発言はなかった。

(2022年5月28日朝刊掲載)

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