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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅲ <11> 国粋と自由の共闘 欧化政策への反発 機運醸成

 初代総理大臣の伊藤博文が憲法草案づくりに集中している頃、盟友の井上馨外務大臣は不平等条約の改正問題に取り組んでいた。関税引き上げ交渉は進んでも、領事裁判権の撤廃に西洋列強は強く抵抗した。

 「未開」と言わぬまでも日本を「半開」とみなす西洋側の意識が交渉の妨げだった。このため政府は極端な欧化政策を採る。服装から芸術まで西洋心酔の風潮が広がり、鹿鳴館の舞踏会がそのシンボルだった。

 明治20(1887)年5月、改正条約が漏れて風向きが変わる。外国人判事の任用や西洋主義に基づく法律編さんに対し、屈辱的との反対世論が噴出した。欧化政策への鬱憤(うっぷん)が幕末の攘夷(じょうい)に似たナショナリズムの沸騰を招いた。

 農商務大臣の谷干城(たてき)は7月、立法に外国人の干渉を許すのは「亡国の兆」との意見書を出して辞職した。国粋保存論からの欧化批判にとどまらない。沈滞する自由民権運動にも格好の政府攻撃材料を提供した。

 民権論者は同年秋から、外交の立て直し、地租の軽減、言論集会の自由―の三大建白運動を組織。後藤象二郎が主導して自由党系の枠を超えた大同団結運動に発展した。

 この頃、広島の芸備日報が世情騒然の首都へ出張取材を敢行した。記者は7年前に官憲から廃刊に追い込まれた広島新聞の元主幹で自由党系の戸田十畝(じっぽ)(山田から養子先に改姓)。引率者がいた。新聞紙条例違反のかどで取り調べ中に十畝を脅しつけた当時の警部松浦武夫である。

 「広島に於(お)ける新聞紙」(熊見定次郎、1908年)によれば、松浦は旧広島藩士でつくる同進社の幹事で、目付け役として芸備日報に在籍。条約改正反対の国粋保存論に共鳴し、書き手の十畝を伴い上京した。谷をはじめ国家主義者を次々に訪れ、十畝は後藤にも会った。

 2人の東京土産の反条約改正論などで「新聞社は自然、国粋保存の一窟となり」と同日報にいた熊見は記す。欧化反対論からの国粋保存には「平生進歩主義を持している側も同感した」とも打ち明けている。

 敵対していたはずの松浦と十畝のタッグ。藩閥政府に対抗する国粋保存論と自由主義の奇妙な共闘を地で行っていた。(山城滋)

谷干城
 1837~1911年。土佐藩出身の軍人政治家で国家主義者。長州藩出身の三浦梧楼、鳥尾小弥太、柳川藩出身の曽我祐準と陸軍反主流派を構成。藩閥体制を批判し、天皇や一部宮中の支持を得た。

(2022年5月31日朝刊掲載)

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