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連載・特集

プロ化50年 広響ものがたり 第2部 高みを目指して <4> 夢の舞台 ウィーン喝采 自信得る

渡航支えた市民の募金

 1984年から2年間、第2代音楽監督として広島交響楽団の再建にタクトを振るった巨匠、渡邉曉雄(あけお)さん。生前、地元の支援熱を高めるには「全国的な評価も必要だ」と訴え、東京公演を念願としていた。

 90年春、いまだ東京公演を実現していなかった広響に、思いがけない話が舞い込んだ。次の年の国連創立記念日(10月24日)に、オーストリアの首都ウィーンで演奏する―。

 青天のへきれきだった招待のきっかけは、前年にさかのぼる。89年4月、広島とウィーンの音楽家たちの親交から国際交流団体「広島オーストリア協会」が生まれ、文部大臣ヒルデ・バブリチェックさんを広島に呼び込んだ。

 「原爆資料館で惨状に心を痛めると同時に、復興ぶりに大変感動された様子だった」と、同協会の副会長で音楽家の光井安子さん(廿日市市)。帰国したバブリチェックさんは、国連のウィーン事務局に赴き、広響の招聘(しょうへい)を提案。世界最高峰のオーケストラを擁する国の文部大臣が、日本の地方楽団を推薦すること自体、異例だった。

 その後、国連ウィーン事務局から正式な招待状が届き、旧チェコスロバキア政府からも首都プラハでの演奏依頼が来た。

 「何としても行きたいと、みな前向きだったが、理事は費用に頭を悩ませていた」。当時、入局したばかりだった井形健児・現広響事務局長は明かす。招待とはいえ、渡航費などの経費約7千万円は自己負担。広響は83年に約8千万円あった累積赤字を3分の1まで削減したところだった。

 「まさか、と驚いた。東京公演も未経験の楽団が一足飛びに海外とは」と話すのは、第4代音楽監督に就任した直後だった田中良和さん(64)=東京。東京芸術大で渡邉さんに師事し、80年から6年間、ドイツに留学。現地の音楽事情を肌身で知っていた。

 だが「市民の力で広響をウィーンへ」という掛け声は、日ごとに高まっていった。90年末、広島オーストリア協会会長の篠原康次郎さん(広島総合銀行会長)を会長とする「広響をウィーンの国連に送る会」が発足。地元企業に寄付を呼び掛け、各所に募金箱を設置した。

 「応援の広がりはすごかった。アマチュア時代からの苦労を知る分、余計に感慨深かった」と、元楽団員でビオラ奏者の新谷愛子さん(72)=西区。大阪音楽大卒業後、前身の広島市民交響楽団に入団。結婚を機に退団したが、87年にオーディションを経て広響に戻っていた。

 募金開始から半年。当初の目標を大幅に上回る306団体、1430人から4650万円が集まった。広島県と広島市の補助金計4千万円を合わせ、総勢92人を音楽の都に送り出した。

 91年10月24日。冷たい雨の中、2700人のウィーン市民が会場に集った。国連旗が掲げられたステージに上がった広響。広島市出身の作曲家糀場(こうじば)富美子さんの「広島レクイエム」や、ドボルザークの「新世界」など4曲を奏でた。中国新聞の同行記者は「勢いのある若々しさ。エネルギッシュな演奏。満場の拍手は、十分に聴衆を引きつけたことを証明していた」と伝えた。

 翌日はプラハ公演。ドボルザークの故郷で披露した「新世界」に、予想外のスタンディングオベーションが起きた。

 渡航公演の指揮を担った田中さんは「普段通りの演奏ができ、拍手をいただいた。広響にとって大きな自信につながった」と振り返る。焦土から出発した楽団は、広島市民とともに「国際平和文化都市のオーケストラ」として新たな一歩を踏み出した。(西村文)

国際連合ウィーン事務局
 米ニューヨークの国連本部、スイスのジュネーブ事務局に次ぎ、1980年に設立。宇宙の平和利用、国際的な薬物規制などの活動を実施。同事務局が入るウィーン国際センターの建物群には、国際原子力機関(IAEA)など多数の国際機関が本部を構える。

(2022年5月27日朝刊掲載)

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