×

連載・特集

被爆60周年 明日の神話 岡本太郎のヒロシマ 第3部 民族学の視点 <5> ノグチと丹下と

互いに刺激 情熱分け合う

三者三様 伝統と対峙

 大阪府吹田市の千里万博記念公園。岡本太郎の「太陽の塔」の左後方に、大阪万博当時、この塔を囲むように設置されていた大屋根の一部が保存されている。先月二十二日、九十一歳で亡くなった建築家丹下健三の作だ。

 同じく右後方には、日系米国人の彫刻家イサム・ノグチ(一九〇四―八八年)がデザインした噴水がある。万博の遺構がほとんど撤去された中、三人の作品はきずなで結ばれたように今も並び立つ。

    ◇

 丹下とノグチは、それぞれ広島市の平和記念公園、平和大橋の設計者だ。そして二人は、やはり原爆のモニュメントである壁画「明日の神話」を描いた岡本とも、戦争の傷跡が濃い一九五〇年代から親交を結んだ盟友だった。

 ノグチは五〇年五月に来日し、アメリカ抽象美術の旗手として大歓迎を受ける。日本の前衛美術界を代表する岡本とは、すぐに打ち解けた。ノグチがパリで師事した彫刻家ブランクーシは、岡本もパリ時代、同じ芸術家団体に属した仲だった。

 二人はフランス語を交え、パリの思い出や芸術を語り合った。ノグチは五一年末、俳優山口淑子さんと結婚式を挙げ、神奈川県鎌倉市にあった陶芸家北大路魯山人宅の離れに新居を構える。岡本はそこも訪ねている。山口さんは「岡本さんは、『芸術はきれいであってはならない』とか、議論をふっかけていました」と思い出を語る。

 ノグチは、埴輪(はにわ)や岐阜ちょうちんなど日本の伝統的様式を、そのモダンな作品に巧みに取り込んだ。「縄文」と題する抽象彫刻も制作している。民族学の素養を創作に生かした岡本と、共通する問題意識を持っていた。

 丹下と岡本は、五三年に結成された建築家、デザイナー、美術家、評論家の横断的組織「デザインコミッティー」などを通じて親交を深めた。二人とも芸術の分野で戦後日本をリードした中心人物。出会いは必然だった。

    ◇

 岡本は「縄文的」、丹下は、原爆慰霊碑のすっきりしたデザインに象徴されるように「弥生的」といわれる作風の差はあったが、互いに刺激し、情熱を分け合った。丹下の代表作に数えられる旧東京都庁舎(五六年)、国立代々木競技場(六四年)には、それぞれ岡本の壁画が躍った。

 二人の共同作業にまつわる逸話では、やはり大阪万博が際立つ。丹下が設計した「お祭り広場」の大屋根を、岡本の「太陽の塔」は無遠慮にも大穴を開けてぶち抜き、「黄金の顔」をその上空に突き出したのだ。

 設計当時、丹下チームのスタッフだった建築家の山本良介さん(62)=京都市=は、事前に漏れ伝わってきた「太陽の塔」案を危ぶむ丹下の命で、岡本の元へ偵察に送られた。「宇宙へ爆発するんだ」と塔の意義をまくし立てる岡本に圧倒され、思わず「すごい」と口走った山本さんは、丹下の怒りを買って「クビになりかけた」という。

 しかし、その後、岡本案を生かすためにひそかに図面を引いてみる山本さんを、丹下は温かい目で見守った。「丹下先生は、根っこのところで岡本さんを信頼していた」。結果的に「太陽の塔」は大屋根を貫いて建設され、万博の中で最も人々の記憶に残る空間ができた。

 岡本、丹下、ノグチは、三者三様に日本の伝統と対峙(たいじ)し、その芸術を社会に還元した。もし仮に、「明日の神話」の展示が平和記念公園に近い場所で実現し、千里万博記念公園と同じ組み合わせが完成したらと考えると、ドラマチックではある。(道面雅量)=第3部おわり

(2005年4月13日朝刊掲載)

年別アーカイブ