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連載・特集

被爆60周年 明日の神話 岡本太郎のヒロシマ 第4部 息づく精神 <下> マニフェスト

悲劇から誇り高く再生

人間疎外を今も問う

 目を凝らすと、壁画の下のプレートに「HIROSHIMA NAGASAKI」の文字が読める。岡本太郎が一九六〇年代末、原爆をテーマにメキシコ市で描いた「明日の神話」。その現地での呼び名だ。建設中のホテルのロビーに仮設置されている姿を撮った貴重な写真が見つかった。

 撮影は一九八〇年。ホテルはこの後、開業を果たせずに倒産、オフィスビルとして転売された。壁画は、二〇〇三年に日本側関係者が同市郊外の倉庫で発見するまで”行方不明”になる。しかし、メキシコの人々の目に、被爆地の名とともに触れた時期があったことを証明する一枚だ。

 撮ったのは、楽器メーカーの駐在員として現地にいた大村桂さん(57)。今は静岡県でメロン農家を営む。「ホテルは内装工事がだらだらと続いていて、ロビーにはセメント袋や材木が散らばっていた。その突き当たりに、こんなとてつもない壁画があったので、驚いてカメラを向けた」と振り返る。最近、この壁画が話題になっているのを知り、自身のホームページで公表した。

 当時、ホテルは最上階の展望レストランだけ営業していた。そこへ昇るエレベーターに向かう途中で見たという。「明確なテーマと、鮮烈な迫力のある超大作。当時の展示状態も良くなかったが、その後の運命はあまりにもったいない」と大村さんは残念がる。

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 その壁画を日本に移送・修復する再生プロジェクトが、いよいよ本格化する。岡本が創立した現代芸術研究所(東京)の平野暁臣代表(46)が、ゼネラルプロデューサーとして事業を率いる。先月急逝した岡本太郎記念館館長・岡本敏子さんのおいである。

 平野さんは「岡本太郎の発したメッセージは、本人が生きていた時代より、今の方がずっと切実に求められている」と語る。そのメッセージを敏子さんは、岡本本人が乗り移ったかのように多くの人々に伝達した。そして最後に、「明日の神話」という最大級のメッセージを届ける準備を整えた。

 「伯母も岡本太郎も、亡くなってしまったという感じがしない。遺志を継ぐというより、二人の魂と一緒に仕事をするような気持ち」と平野さん。近くプロジェクトの詳細を発表する予定だ。

 岡本が眠る墓は、東京・多磨霊園にある。「午後の日」と題する自作のブロンズ彫刻が、赤御影石の上に載っている。ぽっかりと空いた目の穴は、世界を無邪気な童心で見詰めながら、その光明にも暗黒にもたじろがないような強さを感じさせる。

 「職業は人間」が持論だった岡本は、命の充実感を求めてエネルギッシュに生き、近代文明社会では不可避ともいえる人間疎外にあらがった。地位や立場、金銭、効率などに縛られない、生命力の無償の”爆発”を説いた。

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 人類を何度も滅ぼせるほどの核兵器を、人類自身が蓄えて、なぜ廃絶できないのか。どんな分析を並べても、岡本には人間としての無能にしか思えなかっただろう。あの墓に彫り込まれた目には、そう見透かされる気がしてならない。

 「明日の神話」は、残酷な悲劇の瞬間とともに、そこから誇り高く生まれる明日を描く。「壁画は社会に打ち出すピープルの巨大なマニフェスト(宣言)なのだ」と岡本は語った。ピープルとは私たちのことだ。

 このシリーズは今回で終わります。道面雅量が担当しました。

(2005年5月28日朝刊掲載)

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