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連載・特集

プロ化50年 広響ものがたり 第2部 高みを目指して <1> 再出発 記念公演 壮大なオラトリオ

 焦土から復興した広島の人々の思いが集結し、1963年にアマチュア楽団として発足した広島交響楽団。9年後、念願だったプロ化を果たす。だが理想像とする「文化都市にふさわしいオーケストラ」への道のりは想像以上に険しかった。崖っぷちからはい上がり、音楽の都・ウィーンでの公演を実現するまでの足跡をたどる。(西村文、木原由維)

地元作曲家 書き下ろしも

 オーケストラと合唱団が広島市公会堂のステージを埋め尽くしていた。「かえで、かえで、緑もふかく、そだちゆけよ、野をいろどり」。軽やかな管弦楽の調べに乗せて、少年少女の澄んだ歌声が響き渡る。

 72年6月、広響はプロ楽団として再出発を記念する公演で、ショスタコービッチ「森の歌」に挑んだ。戦争で荒廃した国土に緑を取り戻そう―と大合唱団が歌う、壮大なスケールのオラトリオ(声楽と器楽伴奏による作品)だ。

 タクトを担ったのは、創設期から楽団を率いてきたエリザベト音楽大助教授の井上一清さん(2019年に85歳で死去)だった。

 「それまでの広響ではやったことのない大作だった」。元団員で打楽器奏者の白石幸弘さん(74)=呉市=は思いをはせる。広島大教育学部音楽科を卒業後、入団したばかりだった。「私自身『森の歌』の演奏は初めてのこと。一生懸命だった」

 「75年間は草木も生えないといわれた被爆地広島の復興を、井上先生は『森の歌』に重ねていたと思う」と話すのは、広響で楽譜を管理するライブラリアンの松田弘美さん。かつてエリザベト音楽大で井上さんに師事した。

 井上さんは原爆で壊滅した中島国民学校(現中島小、広島市中区)の出身だった。原爆投下時は学童疎開で三良坂町(現三次市)にいて、命を救われた。「今でも学童疎開の仲間とは毎年会う。両親を原爆で亡くした人もいる。彼らが残した作文は涙なしに読めない」。64歳のとき、広島市の音楽イベントで語った。

 「ヒロシマの楽団として何をなすべきか」を考えていた井上さん。プロ化記念公演では「森の歌」に加え、宮島町(現廿日市市)出身の若き作曲家、広川和志さん(2006年に71歳で死去)の新曲を奏でた。

 「記念すべき演奏会で地元作曲家の作品を取り上げれば、より意義ありとする指揮者の井上一清氏の言に奮起した」。広川さんは後日、作曲のいきさつを「広響だより」に寄せている。

 広川さんは広島音楽高を卒業後、エリザベト音楽大で広島市出身の作曲家、安部幸明さん(1911~2006年)に師事した。管弦楽作品やテレビ番組用の楽曲などを多数作曲。宮島町の無線放送で流れる時報チャイムも広川さんの作だ。

 書き下ろした「管弦楽のための奇想曲」は全2楽章。録音が残るフィナーレ部分の演奏は軽快で活気に満ち、井上さんのタクトに鼓舞された楽団員の熱気が伝わってくる。「隣に座っていた夫は険しい表情だったが、演奏が進むにつれ笑顔になっていった」と妻の尚子さん(75)=中区。終演後、拍手を浴びながら登壇し、井上さんと固く握手する夫の姿を記憶する。

 プロ化記念公演の5日後、地元の音楽関係者が感想を語り合った記事が、中国新聞に載った。「お世辞抜きでなかなかのできばえだった」「これまでと比べて安定感が出てきたことにオヤッと思った」「まずは幸先のよいスタートといったところ。問題はこれからだ」

 1年後、広響は早くも多額の赤字を抱え、活動休止に追い込まれた。

指揮者・井上一清さん
いのうえ・かずきよ
 1933年広島市出汐町(現南区)生まれ。戦後、母の郷里の庄原市に転居し、ピアノを習い始めた。東京芸術大楽理科卒。63年、音楽仲間と広島市民交響楽団を設立し、初代常任指揮者に就任。世界的指揮者のアルビド・ヤンソンスに学ぶ。74年エリザベト音楽大教授、96年同大学長。2008年中国文化賞受賞。広響名誉創立指揮者。

森の歌
 旧ソ連を代表する作曲家のショスタコービッチ(1906~75年)が1949年に作曲。ソ連の植林事業を礼賛する七つの歌曲から成る。53年のスターリン死後、政治色の強かった歌詞は改訂された。日本では50~60年代の「うたごえ運動」で人気曲となり、オーケストラ演奏も盛んに行われた。

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(2022年5月24日朝刊掲載)

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