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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅲ <8> 新聞の受難 発行停止続々 中国地方でも

 今も昔も専制国家は言論の自由を縛る。藩閥政府は明治16(1883)年4月、「新聞撲滅法」と呼ばれた新聞紙条例改定に踏み切った。

 時事評論を行う新聞雑誌に課された高額の発行保証金を支払えずに廃刊するケースが相次ぎ、政府を攻撃する新聞の力は急速になえていく。立憲国家への移行前に専制のムチを主導したのは山県有朋だった。

 中国地方ではこの頃、岡山県の高崎五六県令が民権派論調の山陽新報(山陽新聞の前身)を目の敵にした。高崎は発行停止を乱発し、山陽新報は身代わり紙「山陽日報」を出すがこれもすぐに発行停止になる。

 高崎は自身が創刊させる競合紙による買収を画策したが、山陽新報は応じない。「山陽新聞七十年略史」(1949年)によれば、高崎は県内の学校、役場に山陽新報の購読禁止令を出し、弁当包みに同紙を使っただけで小学訓導が罷免された。

 明治16年2月には同紙主筆が暴漢に襲われる事件まで起きる。憤慨した社員たちが世論に訴えようとした紙面は印刷中に官憲に差し押さえられた。同紙部数は激減したが、明治17(1884)年末の県令交代で紙勢を取り戻す。苛烈な弾圧ぶりを「団団珍聞(まるまるちんぶん)」が風刺画に取り上げた。

 広島県では山田十畝(じっぽ)の加入で民権派色を強めた広島新聞が明治13(80)年に発行停止に。続いて、旧広島藩士組織の同進社が経営する広島日報も明治15(82)年5月、発禁となる。板垣退助の遭難に政府要人の関与をにおわせる東京発の通信を掲載したためだった。

 同進社は同年9月、芸備日報と題した新たな新聞を発行する。与党の帝政党支持の保守論調だった。県庁取材の記者が主筆から託された文箱を警察部に持参し、返された箱を開けたら社説原稿に朱で修正がしてあったという。その頃の新聞編集に関わった熊見定次郎著「広島に於(お)ける新聞紙」(1908年)にある。

 新聞条例改定から1カ月で東京16紙、大阪4紙、地方27紙が廃刊した。新聞は論説から雑報中心になり小説も掲載するように。政党新聞が廃れて民権運動は打撃を受けたが、「小新聞」と呼ばれる非政党系の新聞は部数を伸ばした。(山城滋)

新聞紙条例の改定
 発行停止処分に加え、時事評論を行う新聞雑誌に罰金予納金として発行保証金の納入を義務付けた。身代わり新聞発行も禁止、印刷機没収も可能に。地方長官の自由裁量権も明文化された。

(2022年5月26日朝刊掲載)

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