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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅲ <12> 洋学者の転身 「日本」創刊や地域政社に関与

 条約改正問題で欧化主義批判が噴き出して伊藤博文内閣は窮地に陥る。西洋列強との交渉を明治20(1887)年7月に打ち切り、9月には井上馨外相が辞任した。

 文明開化路線の挫折を意味していた。欧化政策は反動として、日本固有で古来の価値を再評価する機運を呼び覚ます。この頃、岡倉天心が奈良で仏教美術に目を開かされた。思想の世界では日本的ナショナリズムである国粋保存論が叫ばれた。

 代表的なのが同年7月の谷干城(たてき)の意見書である。条約改正や欧化政策の批判にとどまらず、政府への異議申し立てを治安妨害と見なして厳しく取り締まる姿勢にも疑問を呈した。あれだけ欧米の治に倣いながら新聞や演説の扱いが自由な国と全く違っており「欧米の具眼者に笑われる」と。

 意見書は秘密出版で出回った。伊藤は谷を「民権論者になつた」と非難したが、民権派の共感を呼ぶ。藩閥政府を挟撃する国粋と民権の境界が次第に溶け始めていた。

 西洋に学び開化を先導した洋学者も転身を図る。広島出身で民権派の風刺雑誌「団団珍聞(まるまるちんぶん)」を創設した野村文夫もその一人。かつて密留学した英国の寛大な政治をたたえたが、「半開国」日本が求める不平等条約是正に英国は非寛大だった。

 野村は立憲改進党に明治15(82)年に入るが、党は衰退。その後、旧広島藩主の浅野長勲(ながこと)に引っ張られるように谷ら国家主義者と交わり、新たな新聞の発行準備に奔走した。

 「国民精神の回復発揚」を掲げた新聞「日本」が明治22(89)年2月に創刊する。野村は東京の自宅を同紙社屋に明け渡した。社長の陸羯南(くがかつなん)は大隈重信外務大臣による新たな条約改正交渉に反対する急先鋒(きゅうせんぽう)となる。

 さらに野村は浅野の意を受け、広島で地域政社「政友会」の旗揚げに関わる。発起人として同年4月に趣意書をまとめ、「皇国固有の良風美質」の保存や「卑屈の方便によらない毅然(きぜん)独立の外交」を求めた。

 旧藩候の威光で会員は増えたが、政府が条約改正を断念すると活動目標を見失う。翌23(90)年4月に野村は「政友会ほとんど瓦解(がかい)」と記す。その1年半後、55年の生涯を国家主義者として閉じた。(山城滋)

 浅野長勲 1842~1937年。最後の広島藩主で実業家、外交官(イタリア公使)、貴族院議員など。国家主義者と交友を結び新聞「日本」に出資。広島の政友会にも資金を提供して活動を支えた。

(2022年6月1日朝刊掲載)

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