[歩く 聞く 考える] 論説主幹 宮崎智三 薄っぺらい「核共有」論議 勝者なき争いに突き進むな
22年6月2日
新型コロナウイルスの感染が、欧米や日本では、ようやく収まりを見せ始めている。本来であれば、コロナ禍で何度も延期されていた核軍縮に向けた国際会議が今月半ば以降、順次開かれ、腰の重い核保有国を突き上げる機会になるはずだった。
ところが、ロシアによるウクライナ侵攻や、核兵器使用をちらつかせるプーチン大統領の威嚇が、国際社会を揺さぶっている。
あろうことか、危機に便乗して核武装の必要性を訴える日本の政治家まで現れた。看過できない。
米国の核兵器を日本に置いて共同運用する「核共有」政策について、安倍晋三元首相が論議すべきだと唱えた。もともとドイツをはじめ複数の北大西洋条約機構(NATO)加盟国が米国の核兵器を共有している政策だ。それを日本にも適用しようという、お手軽感漂う発想だ。
「非核三原則を堅持するという、わが国の立場から考えて、これは認められない」。岸田文雄首相が即座に否定したのは当然だろう。
当の自民党ですら議論はひとまず封印した。しかし安倍氏に同調する政党もある。今月下旬にも公示される参院選で、日本維新の会は議論開始を公約に盛り込む方針という。
思想や表現の自由から、議論するな、とは言いにくい。ただ、政府や与党が公式に議論することには、慎重さが必要だ。関係国などに誤ったメッセージを送ることは、避けなければならない。
岸田氏の言う通り、核共有は「国是」とする非核三原則に明白に反する。「持たず、つくらず、持ち込ませず」という原則は、自民党政権が打ち出し、長年堅持してきた。
安倍氏は忘れたのだろうか。首相を務めていた2016年に、参院予算委員会で、こんなやりとりをしている。自民党が野党に転落した時に「核共有」論議の必要性を訴えた真意を問われ、答えている。
「非核三原則に抵触する中、当然それは行えない。あくまでも、研究として申し上げたことはある」と。
第1次政権の06年には、当時の自民党政調会長が核保有議論の必要性を唱えて批判された。その際も、安倍氏は、政府や自民党の機関では非核三原則堅持の立場から議論しない、との考えを示していた。
政府の方針は、安倍氏の首相時代も含め、何ら変わっていないのだ。
自ら否定した議論の必要性を、首相を退いてから再び唱えるのであれば、安倍氏はまず理由を説明するべきだ。それなしでは、いかにも薄っぺらい考え方だとしか受け取れない。
核共有は、万一の際に米国が助けてくれないのではないかとの懸念の表明にも等しい。「核の傘」に依存している政治家たちが、その米国を信頼できないというのは、矛盾ではないのだろうか。
しかも米国だけではなく、国際的に波紋を広げる恐れがある。政府が外交の柱の一つとする核拡散防止条約(NPT)に反する恐れがあるからだ。NPTは第2条で核兵器を持たない国に対し「核兵器その他の核爆発装置またはその管理をいかなる者からも直接または間接に受領しないこと」などと定めている。素直に条文を読めば、核共有が日本に適用できるとは思えない。
では、なぜドイツなどには核共有政策が認められているのだろう。
第2次大戦後間もない時期の産物だからだ。発効はおろか、NPTそのものが存在さえしていなかった。とはいえNPT違反ではないかとの疑惑はなお、くすぶり続けている。
そんな状況で、日本が新たに核共有をしようとすれば、NPTを真っ向から否定することになる。違反と見なされる恐れもある。核共有の旗を振る人たちは、そうしたリスクを真剣に考えているのだろうか。
北朝鮮に核開発をやめるよう注文を付ける資格も、日本は失ってしまう。自国を守るために核武装するという金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党総書記の発想と核共有は、どれほど違うのか。五十歩百歩ではないか。日本の安全や地域の安定に逆行していよう。
プーチン氏を含む、核兵器を持つ五大国の首脳が年初に公表した共同声明を思い出したい。「核戦争に勝者はおらず、決して戦ってはならないことを確認する」と述べていた。
人類を自滅に陥れかねない核戦争に突き進まないよう尽力する。それこそ日本が果たすべき役割だろう。
核兵器禁止条約の第1回締約国会議が今月21日からウィーンで開かれる。政府がオブザーバー参加すら決断できなければ、被爆者をはじめ市民が、その責務を果たさなければならない。薄っぺらい議論に、人類の未来を委ねるわけにはいかない。
(2022年6月2日朝刊掲載)
ところが、ロシアによるウクライナ侵攻や、核兵器使用をちらつかせるプーチン大統領の威嚇が、国際社会を揺さぶっている。
あろうことか、危機に便乗して核武装の必要性を訴える日本の政治家まで現れた。看過できない。
米国の核兵器を日本に置いて共同運用する「核共有」政策について、安倍晋三元首相が論議すべきだと唱えた。もともとドイツをはじめ複数の北大西洋条約機構(NATO)加盟国が米国の核兵器を共有している政策だ。それを日本にも適用しようという、お手軽感漂う発想だ。
「非核三原則を堅持するという、わが国の立場から考えて、これは認められない」。岸田文雄首相が即座に否定したのは当然だろう。
当の自民党ですら議論はひとまず封印した。しかし安倍氏に同調する政党もある。今月下旬にも公示される参院選で、日本維新の会は議論開始を公約に盛り込む方針という。
思想や表現の自由から、議論するな、とは言いにくい。ただ、政府や与党が公式に議論することには、慎重さが必要だ。関係国などに誤ったメッセージを送ることは、避けなければならない。
岸田氏の言う通り、核共有は「国是」とする非核三原則に明白に反する。「持たず、つくらず、持ち込ませず」という原則は、自民党政権が打ち出し、長年堅持してきた。
安倍氏は忘れたのだろうか。首相を務めていた2016年に、参院予算委員会で、こんなやりとりをしている。自民党が野党に転落した時に「核共有」論議の必要性を訴えた真意を問われ、答えている。
「非核三原則に抵触する中、当然それは行えない。あくまでも、研究として申し上げたことはある」と。
第1次政権の06年には、当時の自民党政調会長が核保有議論の必要性を唱えて批判された。その際も、安倍氏は、政府や自民党の機関では非核三原則堅持の立場から議論しない、との考えを示していた。
政府の方針は、安倍氏の首相時代も含め、何ら変わっていないのだ。
自ら否定した議論の必要性を、首相を退いてから再び唱えるのであれば、安倍氏はまず理由を説明するべきだ。それなしでは、いかにも薄っぺらい考え方だとしか受け取れない。
核共有は、万一の際に米国が助けてくれないのではないかとの懸念の表明にも等しい。「核の傘」に依存している政治家たちが、その米国を信頼できないというのは、矛盾ではないのだろうか。
しかも米国だけではなく、国際的に波紋を広げる恐れがある。政府が外交の柱の一つとする核拡散防止条約(NPT)に反する恐れがあるからだ。NPTは第2条で核兵器を持たない国に対し「核兵器その他の核爆発装置またはその管理をいかなる者からも直接または間接に受領しないこと」などと定めている。素直に条文を読めば、核共有が日本に適用できるとは思えない。
では、なぜドイツなどには核共有政策が認められているのだろう。
第2次大戦後間もない時期の産物だからだ。発効はおろか、NPTそのものが存在さえしていなかった。とはいえNPT違反ではないかとの疑惑はなお、くすぶり続けている。
そんな状況で、日本が新たに核共有をしようとすれば、NPTを真っ向から否定することになる。違反と見なされる恐れもある。核共有の旗を振る人たちは、そうしたリスクを真剣に考えているのだろうか。
北朝鮮に核開発をやめるよう注文を付ける資格も、日本は失ってしまう。自国を守るために核武装するという金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党総書記の発想と核共有は、どれほど違うのか。五十歩百歩ではないか。日本の安全や地域の安定に逆行していよう。
プーチン氏を含む、核兵器を持つ五大国の首脳が年初に公表した共同声明を思い出したい。「核戦争に勝者はおらず、決して戦ってはならないことを確認する」と述べていた。
人類を自滅に陥れかねない核戦争に突き進まないよう尽力する。それこそ日本が果たすべき役割だろう。
核兵器禁止条約の第1回締約国会議が今月21日からウィーンで開かれる。政府がオブザーバー参加すら決断できなければ、被爆者をはじめ市民が、その責務を果たさなければならない。薄っぺらい議論に、人類の未来を委ねるわけにはいかない。
(2022年6月2日朝刊掲載)