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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅲ <13> 文相暗殺 保守層に英雄視する風潮も

 祝祭ムードの中で憲法が発布された明治22(1889)年2月11日の朝、文部大臣の森有礼(ありのり)が若い刺客に襲われて翌朝死去した。

 暗殺者は山口県吉敷郡山口野田町(現山口市野田町)出身の士族西野文太郎(23)だった。東京・永田町の文相官邸を訪れ、式典参列用の大礼服に着替えていた森の腹部を隠し持った出刃包丁で刺した。

 西野は大臣襲撃の情報を提供すると言って応接間に通され、近くを通りかかった森に飛びかかった。文部官吏が仕込み杖(つえ)で西野を背後から切りつけて殺した。

 西野の懐に斬奸(ざんかん)状があった。森文部大臣が伊勢神宮に参詣した際、勅禁を犯して靴を脱がず、杖で神簾(みす)をめくって中をうかがい拝まずに出たのは神への冒瀆(ぼうとく)で皇室を侮辱する無礼―と憤る文面である。

 森が明治20(87)年11月に参拝時のことで、不敬事件として後に新聞に載る。欧米滞在が長い森は急進的な欧化主義者と見られ、反感を抱く神官による中傷ともいわれている。

 西野は萩城下生まれで早くに山口へ移り、父は旧藩主を祭る野田神社に勤めた。大殿小から山口中に進むが中退し、山口県収税課に雇われた。向学心から明治20年に上京し、内務省土木局に出仕した。神道の影響を親から強く受け、吉田松陰の講話集「武教講録」を愛読していた。

 犯行後、平生温順という西野に関する記事多数や父母弟妹宛ての遺書も新聞に載った。暗殺を「至誠より出たる義挙」と西野を英雄視する風潮が保守層の間で広まる。政府は凶行賛美のかどで明治22年3月、新聞雑誌数紙を発行停止にし、西野の伝記などの出版物5種も発禁とした。

 ドイツ人医師ベルツは日記に「上野にある西野の墓では霊場参りさながらの光景が現出している!特に学生、俳優、芸者が多い。よくない現象だ」と書く。「要するに、この国はまだ議会制度の時機に達していないことを示している。国民自身が法律を制定すべきこの時に当たり、かれらは暗殺者を賛美するのだ」と文明人として当然の憤りを表明した。

 西野家に近い山口市八幡馬場の神福寺境内にも墓が建てられた。今はひっそりしているが、戦前は参拝者が多かったという。(山城滋)

森有礼
 1847~89年。薩摩藩士家出身で幕末に藩留学生として英国へ。維新後は政府に出仕し、米国在勤後に明六社を設立して西洋思想の啓発に努めた。英国公使などを経て明治18年の伊藤博文内閣から初代文部大臣。

(2022年6月2日朝刊掲載)

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