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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅲ <14> テロの後景 欧化批判に実力行使肯定論

 西野文太郎が山口県収税課に通った明治15(1882)年ごろ、忠告社という保守結社が山口の後河原(うしろがわら)にできた。忠愛義勇の養成を掲げて欧化を批判し、官庁や警察勤めの士族が集った。支社の萩忠告社名で翌春、天誅(てんちゅう)予告はがきが大阪府知事に届く。知事は親欧米派だった。

 在京の長州閥が文明開化の旗を振る一方で、地元は置き去りになる。時流に乗れない士族が吉田松陰流の忠義再現を夢見た萩の乱は明治9(76)年に挫折。水底に沈殿した攘夷(じょうい)の塊は欧化攻撃の形で浮上する。西野との関係は不明だが、忠告社は森有礼(ありのり)文相暗殺の後景の一つだろう。

 東京に出た西野は、長州出身ながら反藩閥の軍人政治家の三浦梧楼(ごろう)宅をよく訪れた。蔵書を読ませてもらい、徳島への転勤人事でも世話になる。文相暗殺と西野の死を知った三浦は静養先の熱海から帰京し、西野の下宿に馬車を走らせた。同宿者から話を聞き、葬儀を出してやる。黒幕と疑われたのも無理はない。

 不敬事件とされた伊勢神宮での文相参拝を先導した禰宜(ねぎ)の尾寺信は松陰の弟子だった。西野は徳島で読んだ「東京電報」記事で事件を知る。いったん山口に帰り、上京途中に確認のため伊勢を訪れた。三浦のつてで尾寺と会った可能性もある。

 三浦と同じ陸軍反主流派の谷干城(たてき)は文相暗殺の日、「森氏にとっては不幸だが、皇室の尊厳が一層強固となり、生意気な洋学者の胆を寒からしめる」と書く。三浦や谷は陸羯南(くがかつなん)が明治22(89)年に発刊した新聞「日本」の支援者。陸がその前に出していた新聞が東京電報である。

 テロリストの後ろに、欧化になびく藩閥政府を糾弾する人脈が見える。そこに忠義のための実力行使を肯定する松陰精神が加わった。

 山口県立山口博物館に遺族が寄贈した西野の遺品59点がある。斬奸(ざんかん)状や遺書のほか西野の霊にささげた祭文や弔歌が20点余。「義挙」をたたえた人々の底辺の広がりを示す。

 五箇条御誓文にある「万機公論ニ決スベシ」を具現化させた憲法発布日に起きた文相暗殺。同じく御誓文の「旧来ノ陋習(ろうしゅう)(攘夷を指す)ヲ破リ」は難題だった。文明開化のメッキの下から攘夷の地金が出てくる恐れが常にあった。(山城滋)

三浦梧楼
 1847~1926年。萩の藩士家に生まれ、奇兵隊に参加。陸軍で広島鎮台司令長官、東京鎮台司令官など務めて陸軍中将。学習院長や貴族院議員も。山県有朋とは不仲で、藩閥打倒を終生唱えた。

(2022年6月3日朝刊掲載)

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