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[考 fromヒロシマ] 韓国の被爆者支援「市民の会」50年 在外被爆者の援護 道開く

 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」が結成から50年を迎えた。広島、長崎で原爆に遭いながら長く援護の枠外にあった韓国在住の被爆者を支え続けた半世紀。広島市内でこのほど開かれた記念集会を通して、なお残る課題を考える。(森田裕美)

「植民地支配の歴史 向き合って」

 韓国の原爆被害者は、日本の植民地支配下での生活困窮や徴用・徴兵などで日本に渡ってきていて被爆した人たちである。にもかかわらず、長きにわたり日本政府による被爆者援護策から排除されていた。

 市民の会が大阪で発足したのは1971年12月のこと。その年、韓国原爆被害者協会から辛泳洙(シン・ヨンス)さん(99年に80歳で死去)が来日し、窮状を訴えたのが契機となった。前年の70年には広島で被爆した孫振斗(ソン・ジンドウ)さん(2014年に87歳で死去)が日本での治療を求めて密入国して逮捕されていた。孫さんの治療を実現しようと、市民による救援運動も始まっていた。

 市民の会は、韓国から来日した人たちが被爆者健康手帳を取得するための行政手続きや、医療機関とのやりとりなどを助けてきた。被爆者援護法に基づく健康管理手当支給を求めて、98年から司法の場で争った郭貴勲(カクキフン)さんたち在外被爆者の訴訟を全面的に支援した。手帳の交付申請は日本国内でしかできず、せっかく得ても日本国外では失効とされたため、在外被爆者は長く日本の被爆者と同等の手当や医療が受けられない状態に置かれた。

 一連の訴訟で被爆者側が勝訴を重ね、政府は政策を改めざるを得なくなった。在外被爆者への援護法適用に道が開かれたのは、市民の会の活動あってこそだと言えよう。

 ただ「被爆者はどこにいても被爆者」という当たり前の援護に至るまでには被爆から70年余りの時間がかかった。「ほとんどの人は援護が進展する前に亡くなった」。同会の市場淳子会長は集会でそう報告した。人道主義による民間主導の運動は前進したものの、原爆を投下した米国や植民地支配した日本の政府からは反省や謝罪が得られていない現状を語った。さらに、日本との国交がない北朝鮮にいる被爆者はなお置き去りの現実がある。

 こうした課題の根底にあるのは何か―。60年代に中国新聞記者としていち早く韓国の被爆者を取材し、孫さんの支援にも尽くした平岡敬・元広島市長は記念講演で、市民の会発足の前史を語った。

 平岡さんが韓国を訪れ被爆者を取材したのは65年。広島で被爆し治療を望む韓国の男性から新聞社に手紙が届いたのがきっかけだった。朝鮮人が被爆した事実は知っていたはずなのに「被爆から20年も意識の中になかったことを、恥ずかしく思った」と振り返った。

 孫さんを救援する運動では、日本の平和団体や被爆者団体からなかなか理解や支援が得られなかったという。「日本人の歴史認識や韓国・朝鮮人への差別意識」の問題を強く感じるようになったと明かした。

 その背景について平岡さんは「日本社会が8月15日で歴史を区切り、戦争責任や植民地支配の責任を考えなくなった」と見る。歴史を正しく認識した上で「日韓の被爆者が手をつないで核の非人道性を告発すべきだ」と強調した。

 草創期から活動を続ける在韓被爆者問題市民会議(東京)の小田川興代表、市民の会広島支部で長く支部長を務めた豊永恵三郎世話人、長崎支部の平野伸人支部長も報告に立った。ロシアのプーチン大統領がウクライナを侵攻し核使用もほのめかす中、そうした行為を許さないためにも歴史を直視することが大切だとあらためて確認し合った。

 「市民の会」の歩みを振り返ることは、被爆地の私たちが足元を省みることと、つながっている。

韓国・朝鮮人の被爆実態
 1944年末の内務省警保局の調査によれば、広島県下に8万1863人、長崎県下に5万9573人の朝鮮人がいたとされる。韓国原爆被害者協会は72年、広島で5万人が被爆しうち3万人が死亡、長崎で2万人が被爆しうち1万人が死亡したと推定。「広島・長崎の原爆災害」(79年、岩波書店)は「その把握はきわめて困難」としながら、広島市で2万5千~2万8千人が被爆し5千~8千人の範囲で死亡、長崎では1万1500~1万2千人が被爆し1500~2千人が死亡したと推測する。だが実数はいまだ明らかでない。

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「渡日治療委」も医療支援に力

日韓つないだ故金牧師

 「市民の会」に加え、広島での在韓被爆者支援を担ったのが2016年に活動を終えた「在韓被爆者渡日治療広島委員会」だ。

 韓国の被爆者に医療を提供するため、河村虎太郎医師(1987年に73歳で死去)たちの呼び掛けで84年に結成。全国からカンパを募り、広島市内外の病院が被爆者を受け入れた。日本政府が在外被爆者への医療費全額支給を始めた16年までに延べ572人を招いた。

 そんな地道な活動を支えたのが、今年5月に90歳で亡くなった在日韓国人の金信煥(キム・シンファン)牧師だった。愛知県で生まれ、同志社大大学院修了後牧師に。韓国留学を経て66年、在日大韓基督(キリスト)教広島教会に主任牧師として赴任した。

 信者の家庭訪問をするうち、原爆後障害に加え生活困窮や差別にさらされた同胞の実情を知ったという。私費を投じて在韓被爆者を診ていた河村医師と出会い、共に活動するようになった。84年に組織化した広島委員会で代表幹事を務めた金さんは、韓国政府との橋渡し役として被爆者健康手帳の取得や広島での入院の世話などに奔走。在外被爆者が日本国内の被爆者と同等の援護を受けられるようになってからも、親身に寄り添い続けた。

 父・虎太郎氏の遺志を継ぎ金さんと活動を続けた河村譲元会長は「日本語を強いられた植民地下では幼かった若年被爆者が徐々に増え、言葉の問題も生じた中、金先生の存在は本当に大きかった」としのんだ。

(2022年6月6日朝刊掲載)

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