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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅲ <15> 地方官会議 府県知事ら「徳育」の建議

 初代文部大臣の森有礼(ありのり)は英語の公用語化を唱えたこともある欧化主義者である。保守派の反発を振り切って伊藤博文総理が起用した。

 森は明治19(1886)年から学制改革に乗り出す。国家のための教育を目指し帝国大学から師範・中・小学校までの体制を確立した。

 欧化の行き過ぎを戒める天皇意見の「教学大旨」(明治12年)後に広がった修身教育に、森はストップをかけた。小学校で修身科教科書の使用を禁じ、中学校以上で「修身」を「倫理」に変えたのである。

 教学大旨に対する当時の伊藤内務卿(きょう)の反論と同じく、開化主義からの儒教主義批判だった。方向転換はしかし、次なるあつれきを生む。

 民権運動を鎮圧する府県知事が不満をためていた。徳育が廃れて欧化が進むと民権派が勢いづくとの内務官僚的な発想である。

 やがて森文相が暗殺され、大隈重信外務大臣が爆弾テロで重傷を負って欧化推進の理由だった条約改正交渉も頓挫した。知事たちは明治23(90)年2月、東京での地方官会議で徳育涵養(かんよう)の建議をまとめる。

 現行の学制を「知育が主で徳育が全く欠けている」と批判し、「社会秩序を紊乱(びんらん)し国家を危うくする」と警告。わが国固有の倫理に基づく徳育主義を定めた上で、倫理修身の教科書選定と時間増も求めた。留学帰りの開化派官僚が主導してきた文部省に対する闘争宣言だった。

 地方官会議に絡む人間模様も興味深い。議長の高崎五六東京府知事は岡山県令時代に民権派に大弾圧を加え、「鬼県令」と恐れられた。

 一方、建議をまとめた埼玉県知事の小松原英太郎は明治9(76)年、東京の評論新聞で政府を攻撃して禁獄2年に。明治12(79)年、岡山に帰郷して山陽新報の初代主筆となる。高崎が目の敵にした民権派の国会開設運動を強力に後押しした。

 小松原は新報在社1年余で政府に仕官した。山県有朋に認められ、ドイツ公使館勤務を経て内務省参事官に帰任。典型的な山県閥官僚として政党や民衆の運動を抑え込む。

 反政府の元闘士が元鬼県令を補佐して徳育の建議を練る姿。10年余り前には想像だにできない民権派から国権派への転身だった。(山城滋)

小松原英太郎
 1852~1919年。生家は岡山のウナギ問屋。慶応義塾に学び評論新聞編集長。山陽新報主筆後、同郷の花房義質の推薦で仕官。明治41年に文部大臣となり、教育を通じて国民統合を進めた。

(2022年6月4日朝刊掲載)

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