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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅲ <16> 教育勅語 憲法を上回る影響及ぼす

 徳育の方針明確化と拡充を求める府県知事たちは明治23(1890)年2月末、榎本武揚(たけあき)文部大臣に建議を提出した。就任間もない山県有朋首相は知事たちと同意見で、内閣で徳育問題の議論が始まる。

 山県の頭の中に、自らが8年前に主導した軍人勅諭のことがあった。天皇自らが兵士に忠節を求めたように、天皇の言葉としての「教育ニ関スル勅語」へ発展させていく。

 榎本は徳育に不熱心とみた山県は同年5月、腹心だった内務次官の芳川顕正(よしかわあきまさ)を文相にした。天皇は大臣任命の際、異例にも「教育上の基礎となる箴言(しんげん)を編めよ」と命じる。

 芳川は、忠孝仁義に基づく箴言案を教育者の中村正直に執筆させた。かなりの長文で「神ヲ敬ヒ」との表現もあった。法制局長官の井上毅(こわし)は中村案に不満を示し、神との言葉は宗旨争いを生むと批判した。

 山県の求めで井上自らが稿を練る。天皇側近の元田永孚(ながざね)や山県、芳川と相談して仕上げたのが「朕(ちん)惟(おも)フニ」で始まる教育勅語である。

 「臣民が忠孝をよくする美風は国体の精華で教育の淵源(えんげん)でもある」と勅語はいう。父母孝行や兄弟仲良くから博愛、修学、習業、国憲を重んじて国法に従い―など臣民の徳目を列挙。「危急のときには義勇をふるって公につくし、永久に続く皇室の運命をたすけよ」と説く。

 天皇の臣民として危急の際に身をささげるよう求めた教育勅語は同年10月30日に発布された。国家神道と儒教に彩られた復古的な思想が前面に出て、22年前の五箇条御誓文に見られた開明性は影を潜めた。

 前年発布の憲法には、絶対的な天皇大権と天皇機関説の両面があった。教育勅語は前者を補強しただけではない。奉読の行事が神聖化されることで、憲法を上回る影響を教育界や社会全般に及ぼしていく。

 広島県は翌明治24(91)年1月、教育勅語の奉読方心得を定めて謄本の下賜を始めた。佐伯郡宮内尋常小学校(現廿日市市立宮内小)では、正装した校長の手で郡役所から持ち帰られた勅語謄本を校庭に整列した児童が迎え、職員室の奉安庫に納められた。地域を挙げて奉読式を催した学校も多かった。(山城滋) =見果てぬ民主Ⅲおわり

 広島県の「教育ニ関スル勅語」奉読方心得 学校は式日及び毎月1回は奉読、終了後は勅語解釈や道徳教育の談話を行う、父兄等の出席を勧める、学校職員は礼服を着用、勅語謄本の厳重管理―を訓令した。

(2022年6月7日朝刊掲載)

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