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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 大村益次郎に学ぶ 「知の実践者」の側面に光を 安田女子大准教授 竹本知行さん

 大村益次郎(1825~69年)は現在の山口市鋳銭司(すぜんじ)生まれの洋学者。長州藩から新政府に加わり、近代軍制の礎を築くが明治改元の1年余り後、暗殺される。安田女子大現代ビジネス学部の竹本知行准教授(49)は政治史の視点から、その生涯を捉え直す評伝「大村益次郎―全国を以(もっ)て一大刀と為(な)す」(ミネルヴァ書房)を3月に刊行した。大村の足跡の再検証で何が見えたのか。(特別論説委員・岩崎誠、写真・山田太一)

―なぜ大村の研究を。
 研究を始めたのは大学院に入ってから。政治学を専攻する中で近代の政治システム、特に軍事を考えるため制度設計をした大村を調べたいと思いました。政治史では人物を取り上げる時に周りの人々や時代、空間との関わりを重視します。西洋と日本がパワーポリティクス(武力政治)で向き合う、端境期の幕末・維新の時代が大村の力をどう求めたのかがテーマです。

―幕末の長州戦争や戊辰戦争を勝利させた軍事指導者として大村は語られてきました。
 靖国神社(東京)に大村の巨大な銅像があります。維新の第一級の功臣ですが戦前・戦中は軍事の業績が賛美され、それが戦後は一転してマイナスのイメージになりました。今回の評伝では、できる限り演繹(えんえき)的にならないよう断片史料をつなぎ合わせ、もっと幅広い業績、「近代的学知」の実践者としての生涯に迫りました。先行研究や評伝は意外と少ないのです。

―知の実践という視点は興味深いですね。大村で思い出すのはNHK大河ドラマ原作の司馬遼太郎の「花神」ですが。
 その影響は大きいのですが創作であり、司馬が作り上げた幕末・維新像の中で歴史を再構成し、大村を語っています。

―抜けた部分も多い、と。
 大坂(当時)の蘭方(らんぽう)医、緒方洪庵の適塾に入った大村が同じ長州の久坂玄機に影響を受けたことも出てきません。志士として名高い久坂玄瑞の兄です。玄機がテキストに選んだオランダの兵書を一緒に読んだことが、大村と兵学の出合いだと思います。当時の兵書は軍事だけでなく、天文、地理、土木建築、数学、政治学などを含む学問の集積。大村が発想と視野を広げるきっかけになったのです。

―郷里に戻った大村は村医者を経て四国の宇和島、さらに江戸に出ます。最初から軍事を志したのではないのですね。
 江戸では幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)で翻訳の仕事の傍ら、鳩居堂(きゅうきょどう)という私塾で医学も教えていました。入門者の多くが武士で台場の造り方や大砲の撃ち方を望んだため兵学にシフトしたのです。意識が大きく変わったのは盟友となる長州の木戸孝允と出会い、国家意識を共有してからです。大村を軍事に導いたのは時代の要請でしょう。

―軍事の異才という「花神」の捉え方も違うのですか。
 大村が指揮した長州戦争の石州口の戦いを見ると天才的なオリジナルの作戦というより、自ら翻訳した兵書のテキスト通りに実行したように思えます。江戸開城後の彰義隊との上野戦争にしても、政治的には大勝利でしたが、戦略的には完勝と言えません。大村は自分自身に抑制的であり、英雄というものにも懐疑的でした。神格化は望んでいなかったと思います。

―大村はどこに行っても蘭学の私塾を開いていますね。教育者としての顔とは。
 高名な蘭学者だけに教えを求める若者は多く、喜んで受け入れたのでしょう。ドラマのせいか無愛想なイメージがありますが弟子の面倒見はすごくいい。家族にも優しく、人に慕われていました。仮に暗殺がなければ明治政府で栄達は望まず、学校でもつくって日本有数の私立大になったかもしれません。没後150年を記念し、鋳銭司には江戸の鳩居堂で教壇に立つ大村の銅像ができました。地元の顕彰の仕方に感銘を受けます。教育者としての姿に本人も喜んでいるのではないでしょうか。

―いま大村を、幕末・維新の時代を学ぶ意味は何ですか。
 国際政治の中で主権をどう守るかの議論が日本にどこまであるでしょう。ほかの国が言うからやる、ではなく主体的、国民的な議論が必要です。法律も軍隊も警察もないところから始まった時代、それに本気で取り組んだ大村たち先人を通じ、考えることは多いと思います。

■取材を終えて
 ドラマ「花神」で大村を知った世代だ。従来の大村像の見直しを迫る地元出身の研究者の仕事にこれからも期待したい。

たけもと・ともゆき
 山口県和木町生まれ。岩国高卒、同志社大大学院法学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(政治学)。同大法学部助教などを経て20年現職。著書に「幕末・維新の西洋兵学と近代軍制」(思文閣出版)など。広島市東区在住。

(2022年6月8日朝刊掲載)

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