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連載・特集

緑地帯 丸古玲子 呉本こぼれ話⑧

 「呉本に」の準備も終盤の2022年1月。最後のあがきで呉に短く帰った際、「あれ、呉が怖くなくなっている」と気づいた。それまで私は呉が怖かった。初代「呉本」の最中には呉に怖気(おじけ)づき、逃げるように帰京したこともある。

 呑(の)み込まれ不安というそうだ。呉がはらむ歴史や気配の底無しに圧倒され、それは私の心身にひたひたと忍び込み、内側から侵食していく。こんなに大きな呉を私ごときの小さな手でつかめようものか。器からどんどんあふれる。

 初代を執筆中、私の両の手のひらに次々と水泡が湧いた。膨らんで潰(つぶ)れて乾いて割れて、とても痛い。手袋をはめてキーボードを叩(たた)いた。背中や太腿や腹には蕁麻疹(じんましん)が赤く広がった。

 辛いならやめればいい、と言われ、以来、私は症状を口にしなくなった。辛いからやるんじゃないか、手がこんなだからやり遂げるんじゃないか。あの頃、ぷちんと壊れて泣き叫びもしたのに、おや。「呉本に」の今、呉への恐怖心が少ししぼんでくれている。

 ふるさとを知るということは、うれしいばかりではない。まして呉は鎮守府と工廠(こうしょう)の盛衰入り乱れた歴史を持つ。人が人ではいられなくなる戦争があり、たくさんの命を無くしながらもたくさんの命を育んだ。光と影は常に対で、偉人がいれば愚人もいる。思想の対立を知るたび私は傷つき、何人もの人から話を聞くことで救われた。

 ふるさとを知っていくと、それまで持ち得なかった感情や感覚を我が身に芽生えさせることができる、と私は思う。過去との出会いが、今と未来を作るのだ。(ライター=呉市出身)=おわり

(2022年6月21日朝刊掲載)

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