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早瀬砲台跡 活用策探る 地元住民ら 山中の遺構調査 音戸

旧陸軍が整備 広島湾要塞の一部

 呉市音戸町の住民たちでつくる音戸町魅力化推進協議会が、町内の山中に眠る「早瀬砲台跡」の活用を探るための現地調査をした。明治期に旧陸軍が整備した広島湾要塞(ようさい)の一部を構成し、倉橋島と江田島の海峡(早瀬瀬戸)防御を目的に建造された。住民の間でも忘れられつつあることから、地元の戦争遺構を確認しようと企画した。(仁科裕成)

 早瀬大橋を望む瀬戸島山の中腹、標高約300メートルの山中にあり、第1、第2堡塁(ほるい)砲台からなる。旧陸軍の資料によると、第2砲台は1900(明治33)年に完成し、9センチキャノン砲6門が配備された。第1砲台はその翌年に完成したが、大砲が配備された記録はない。

 調査に同行した今月中旬、生い茂る木の枝をかき分けながら進むと、石造りの建物が姿を表した。第1砲台の兵舎跡で、屋根は抜け落ちているが、堅固な石壁は当時の趣がそのまま残る。第2砲台のエリアを含めて他にも、大砲を設置したコンクリート造りの砲床や火薬庫などが、当時の配置図通りの場所にあることが確認できた。

 広島湾要塞は、日露戦争(1904~05年)を前に相次いで築かれた13カ所の砲台の総称。ロシアのバルチック艦隊の侵入を防ぐため、厳島(廿日市市)や江田島など島しょ部を中心に設けられたが、実際に使用されることはなく、大正期に廃止された。

 現在、江田島市沖美町の三高山砲台跡などは、遺構を残した公園に整備されている。早瀬砲台跡は車道から離れており、急な山道を登る必要があるため、同協議会は今後どのような形で活用するか検討する。相川敏郎会長は「歴史を今に伝える貴重な場所。多くの人に知ってもらえるよう考えていきたい」と話す。

(2022年6月23日朝刊掲載)

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