[被爆建物を歩く] 教専寺本堂/浜田樹苗園給水塔/三滝寺鎮守堂
22年6月27日
米軍による原爆投下の当時から残る被爆建物は、いまなお77年前のあの日の悲惨を伝えている。原爆ドーム(広島市中区)や平和記念公園のレストハウス、さらには現存する4棟の事実上の保存が決まった旧陸軍被服支廠(ししょう)(南区)は、国内外に知られた存在だ。一方で、普段から目に留まることは少ないものの、ほかにも私たちの身近に「物言わぬ証人」がたたずんでいる。それらを訪ね歩き、光を当てる。(湯浅梨奈)
「証し」の壁板 そのままに
厚さ2センチほどの木の壁板が、爆風で破れたままになっている。浄土真宗本願寺派教専寺(広島市西区)の本堂は、爆心地から約4・9キロの草津本町にある。「惨状を伝える証しにしたいのです」。前住職の故選一法(こせんいっぽう)さん(83)は、修理をせずそのまま残している。
原爆が投下された1945年8月6日以降、本堂に兵隊たちが寝泊まりし、市街地での救護や後片付けに向かっていたと故選さんは記憶する。広島原爆戦災誌には「十二月ごろ、草津・庚午地区町民犠牲者約七〇〇体の合同慰霊祭を教専寺において盛大に執行した」と書かれている。
築10年だった教専寺の本堂は、倒壊は免れたものの窓ガラスが割れるなどの損害を受けた。本堂内部の柱に、ガラス片を浴びた無数の跡が残る。壁板の穴も、その時にできた。故選さんは穴の傍らに「爆風が吹いたことを示すあかし」との説明書きを掲げ、参拝者たちに伝えている。県外の児童たちが時折、平和学習の一環として見学に訪れる。
草津国民学校1年生だった故選さんは、世羅郡(現世羅町)に集団疎開していて被爆を逃れた。しかし、広島二中(現観音高)1年の兄浩行さんは、爆心直下の中島本町(現中区)で建物疎開作業中に被爆。翌日、息を引き取った。寺の総代ら13人も市内で被爆死したという。
肉親たちを失った悲しみを胸に平和を訴えてきた故選さんを、長男の正法さん(55)が継ぐ。「爆心地からこれだけ離れた場所にも被害が及んだことを伝え続ける建物。父の思いを受け継ぎ、残していきたい」
店のシンボル 今も現役
広電西広島駅(西区)からほど近い、四季折々の花苗のポットや庭木が並ぶ緑の空間にレトロな赤れんがの塔がひときわ目立つ。高さ約10メートル、3メートル四方の3階建て。西区己斐本町の園芸専門店「己斐ガーデンスクエア」で、現役で活躍している給水塔だ。
爆心地から約2・8キロで原爆を耐えた。経営する浜田樹苗園の浜田秀蔵社長(75)は「店のシンボルマークです」と語る。1階のアーチ状の扉を開き、中に設置されたポンプを見せてくれた。塔の隣には、やはり被爆前からある井戸が二つ。ここからくみ上げ、水やりに使っている。
一帯は1919年に稼働した日本麻紡績の工場だった。蚊帳の製糸・製織が行われていたと「帝国製麻株式会社三十年史」は記す。96年に原爆資料館が刊行した「ヒロシマの被爆建造物は語る」は工場敷地の給水塔を描いた20年代の絵はがきを掲載している。
戦後、近くで苗木生産業を営んでいた浜田さんの祖父が連合国軍総司令部(GHQ)から工場跡地の払い下げを受け、現在に至る。かつて壁面にツタが生い茂り「甲子園球場の壁みたいな趣でした」。れんがの劣化を防ぐため数年前にやむなく取り除いた。
花々に囲まれた給水塔は77年前、どんな光景を目の当たりにしただろう。復興と街の移り変わりを俯瞰(ふかん)してきた「証人」でもある。
銅板の屋根 保存に腐心
高野山真言宗の古刹(こさつ)、三滝寺(広島市西区)の参道を上り、境内をさらに進むと鎮守堂が現れる。爆心地から約3キロ。住職の佐藤元宣(はるのぶ)さん(65)は語る。「あと何年、もつでしょうか―」
屋根は銅板ぶきで、腐食のため雨漏りが目立っていた。今年1月末から約2カ月をかけて、屋根の一部と傾いた建物を修理した。費用約400万円のうち半額を市の補助金で賄った。
本来、銅板は全面的にふき替える時期だが「あえて完璧には直しませんでした」。被爆当時の姿をなるべく残すためだ。ただ宮大工から「あと30年もたないかも」と告げられた。
原爆投下後、境内で火の手が上がったが「黒い雨」が降り鎮火した。寺に住んでいた親類の子どもたちが市内に出ていて被爆死した。焼け出された被災者は寺に身を寄せ、行方不明の家族を捜し歩いたという。寺には三つの滝があり、8月6日の平和記念式典前にささげる「原爆献水」の取水地でもある。
境内には、鐘楼など他にも4件の被爆建物が残る。老朽化や安全面を考えると「使いながら保存するのは難しい」と佐藤さんは感じている。「いずれ建て替えが必要。被爆の史実を後世に伝えるにはどうすべきか、模索しています」
米軍による原爆投下で、広島では爆心地から2キロ以内の建物はほぼ全焼あるいは全壊し、3~5キロ以内は木造建物の約8割が半壊、半焼するなど大きな被害を受けた。
市は爆心地から5キロ以内に被爆前から残る建物を台帳に登録している。6月1日現在で86件。7割以上が民間の所有で、その多くが寺や神社だ。
登録制度を開始した1993年度以降、96年度の98件をピークに減少傾向にある。市が建物所有者を対象に定期的に実施しているアンケートでも「老朽化」を課題に挙げる回答が目立つ。
市は民間所有者向けに保存工事用の補助金を交付している。木造建物は上限3千万円で、コンクリート造りなど非木造は上限8千万円。例年1~2件の利用がある。それでも課題は尽きない。戦後に建物の用途が変わったり、所有者の高齢化で管理が難しくなったりするケースもある。稲田亜由美・市被爆体験継承課長は「所有者の判断に委ねるしかないが、市からお願いする形で継承に努める」と話す。
シンポジウム「戦争の記憶―ヒロシマ/ナガサキの空白」を7月18日午後1時半からオンラインで開催します。本紙の水川恭輔編集委員、長崎大核兵器廃絶研究センターの林田光弘特任研究員、広島市立大広島平和研究所の四條知恵准教授が登壇。中国新聞創刊130周年を記念し、俳優の吉永小百合さんによる原爆詩の朗読映像も放映します。事前申し込みが必要です。
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=120245
(2022年6月27日朝刊掲載)
教専寺本堂
「証し」の壁板 そのままに
厚さ2センチほどの木の壁板が、爆風で破れたままになっている。浄土真宗本願寺派教専寺(広島市西区)の本堂は、爆心地から約4・9キロの草津本町にある。「惨状を伝える証しにしたいのです」。前住職の故選一法(こせんいっぽう)さん(83)は、修理をせずそのまま残している。
原爆が投下された1945年8月6日以降、本堂に兵隊たちが寝泊まりし、市街地での救護や後片付けに向かっていたと故選さんは記憶する。広島原爆戦災誌には「十二月ごろ、草津・庚午地区町民犠牲者約七〇〇体の合同慰霊祭を教専寺において盛大に執行した」と書かれている。
築10年だった教専寺の本堂は、倒壊は免れたものの窓ガラスが割れるなどの損害を受けた。本堂内部の柱に、ガラス片を浴びた無数の跡が残る。壁板の穴も、その時にできた。故選さんは穴の傍らに「爆風が吹いたことを示すあかし」との説明書きを掲げ、参拝者たちに伝えている。県外の児童たちが時折、平和学習の一環として見学に訪れる。
草津国民学校1年生だった故選さんは、世羅郡(現世羅町)に集団疎開していて被爆を逃れた。しかし、広島二中(現観音高)1年の兄浩行さんは、爆心直下の中島本町(現中区)で建物疎開作業中に被爆。翌日、息を引き取った。寺の総代ら13人も市内で被爆死したという。
肉親たちを失った悲しみを胸に平和を訴えてきた故選さんを、長男の正法さん(55)が継ぐ。「爆心地からこれだけ離れた場所にも被害が及んだことを伝え続ける建物。父の思いを受け継ぎ、残していきたい」
浜田樹苗園給水塔
店のシンボル 今も現役
広電西広島駅(西区)からほど近い、四季折々の花苗のポットや庭木が並ぶ緑の空間にレトロな赤れんがの塔がひときわ目立つ。高さ約10メートル、3メートル四方の3階建て。西区己斐本町の園芸専門店「己斐ガーデンスクエア」で、現役で活躍している給水塔だ。
爆心地から約2・8キロで原爆を耐えた。経営する浜田樹苗園の浜田秀蔵社長(75)は「店のシンボルマークです」と語る。1階のアーチ状の扉を開き、中に設置されたポンプを見せてくれた。塔の隣には、やはり被爆前からある井戸が二つ。ここからくみ上げ、水やりに使っている。
一帯は1919年に稼働した日本麻紡績の工場だった。蚊帳の製糸・製織が行われていたと「帝国製麻株式会社三十年史」は記す。96年に原爆資料館が刊行した「ヒロシマの被爆建造物は語る」は工場敷地の給水塔を描いた20年代の絵はがきを掲載している。
戦後、近くで苗木生産業を営んでいた浜田さんの祖父が連合国軍総司令部(GHQ)から工場跡地の払い下げを受け、現在に至る。かつて壁面にツタが生い茂り「甲子園球場の壁みたいな趣でした」。れんがの劣化を防ぐため数年前にやむなく取り除いた。
花々に囲まれた給水塔は77年前、どんな光景を目の当たりにしただろう。復興と街の移り変わりを俯瞰(ふかん)してきた「証人」でもある。
三滝寺鎮守堂
銅板の屋根 保存に腐心
高野山真言宗の古刹(こさつ)、三滝寺(広島市西区)の参道を上り、境内をさらに進むと鎮守堂が現れる。爆心地から約3キロ。住職の佐藤元宣(はるのぶ)さん(65)は語る。「あと何年、もつでしょうか―」
屋根は銅板ぶきで、腐食のため雨漏りが目立っていた。今年1月末から約2カ月をかけて、屋根の一部と傾いた建物を修理した。費用約400万円のうち半額を市の補助金で賄った。
本来、銅板は全面的にふき替える時期だが「あえて完璧には直しませんでした」。被爆当時の姿をなるべく残すためだ。ただ宮大工から「あと30年もたないかも」と告げられた。
原爆投下後、境内で火の手が上がったが「黒い雨」が降り鎮火した。寺に住んでいた親類の子どもたちが市内に出ていて被爆死した。焼け出された被災者は寺に身を寄せ、行方不明の家族を捜し歩いたという。寺には三つの滝があり、8月6日の平和記念式典前にささげる「原爆献水」の取水地でもある。
境内には、鐘楼など他にも4件の被爆建物が残る。老朽化や安全面を考えると「使いながら保存するのは難しい」と佐藤さんは感じている。「いずれ建て替えが必要。被爆の史実を後世に伝えるにはどうすべきか、模索しています」
広島市の登録建物86件 老朽化など課題
米軍による原爆投下で、広島では爆心地から2キロ以内の建物はほぼ全焼あるいは全壊し、3~5キロ以内は木造建物の約8割が半壊、半焼するなど大きな被害を受けた。
市は爆心地から5キロ以内に被爆前から残る建物を台帳に登録している。6月1日現在で86件。7割以上が民間の所有で、その多くが寺や神社だ。
登録制度を開始した1993年度以降、96年度の98件をピークに減少傾向にある。市が建物所有者を対象に定期的に実施しているアンケートでも「老朽化」を課題に挙げる回答が目立つ。
市は民間所有者向けに保存工事用の補助金を交付している。木造建物は上限3千万円で、コンクリート造りなど非木造は上限8千万円。例年1~2件の利用がある。それでも課題は尽きない。戦後に建物の用途が変わったり、所有者の高齢化で管理が難しくなったりするケースもある。稲田亜由美・市被爆体験継承課長は「所有者の判断に委ねるしかないが、市からお願いする形で継承に努める」と話す。
来月18日にシンポ「戦争の記憶」 オンライン開催
シンポジウム「戦争の記憶―ヒロシマ/ナガサキの空白」を7月18日午後1時半からオンラインで開催します。本紙の水川恭輔編集委員、長崎大核兵器廃絶研究センターの林田光弘特任研究員、広島市立大広島平和研究所の四條知恵准教授が登壇。中国新聞創刊130周年を記念し、俳優の吉永小百合さんによる原爆詩の朗読映像も放映します。事前申し込みが必要です。
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=120245
(2022年6月27日朝刊掲載)