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連載・特集

『生きて』 被爆教師 森下弘さん(1930年~) <8> 葛藤

顔の傷抱え苦悩の日々

  ≪教職に就こうとしていた頃、故河本一郎さんと知り合う≫
 彼は「原爆の子の像」の建立を発案したことで知られていますよね。当時は、原爆ドーム(広島市中区)そばで土産物店を営んでいた吉川清さん、生美さん夫妻(いずれも故人)と活動しとられた。初期の被爆者グループをつくってね。私は県外から訪れた旧友をドームに連れて行った時に偶然、彼らと出会うわけ。

 河本さんは、全国から集まるカンパや救援物資を貧しい被爆者に配って回っていた。その姿に触発されたのかもしれん。言われるがままに、ガリ版刷りの機関紙作りなんかを手伝いました。思えば、あれが初めての平和活動かもしれんね。

  ≪葛藤もあった。1956年、原爆資料館(中区)で開かれた「原子力平和利用博覧会」。生徒の引率で訪れ、ショックを受ける≫
 資料館に入ったのは、あれが初めてだったでしょうね。暗い気持ちになりました。「怖い」「今夜は眠れない」。ケロイドの写真を前に、生徒がそう言うのを聞いたんです。

 外見より心の持ちよう―。父にそう励まされ、もう僕も割り切っていたつもりでした。「この顔になったのは自分の罪ではない」とも思っていた。でもまた、不安と劣等感がもたげてきました。「ケロイドをさらけ出し、生徒の心を暗い気持ちにさせているのではないか」「やはり醜いものは醜いんだ」と。生徒と向き合えなくなり、原爆の話もしなくなりました。

 ただ、57年に結成された「広島県動員学徒犠牲者の会」には加わった。被害への国家補償を求め、当時の厚生省へ陳情に行くわけ。蒸気機関車でかなりの時間をかけてね。でも何度も断られた。女性の方が割と早めに訴えを認められていたように思います。私に障害年金が支給されるようになったのは69年。10年以上もかかったんです。

  ≪57年から県立大竹高に勤務。さらに60年、その後30年を過ごすこととなる県立廿日市高に赴任する≫
 廿日市高に赴任して間もなくして迷いのようなものが吹っ切れ、平和教育に打ち込むようになりました。その大きなきっかけの一つが、長女を授かったことでした。

(2022年4月29日朝刊掲載)

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